ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

国語科教育とアクティブ・ラーニングの微妙な関係

 ありていに言えば昨日の続きです。 

s-locarno.hatenablog.com

 まあ、あまりごちゃごちゃ引用しても疲れるので、思い付きをつらつらと…。

 言語活動の充実とアクティブ・ラーニングの関係

この前の日本国語教育学会全国大会の感想でも言いましたが、世間の流行ということもあって、国語科でも「アクティブ・ラーニング」(面倒なので以下AL)ということがにわかに注目されつつあるわけです。*1 

s-locarno.hatenablog.com

この時にも感じたことではありますが、国語科が重視してきた「単元学習」や現行の指導要領で言われている「言語活動」を実現するためには、どうしたって見た目は活動が行われる、ALにならざるを得ないわけです。

だからこそ、単元学習をやっている先生方や言語活動を取り入れた実践書を見ると、それらの授業の延長でALが実現できると書かれていることが多い。

たとえば、最近出た本では、この前も紹介した以下の二冊がそのような方向性で書かれているといっていい。 

アクティブ・ラーニングを位置づけた中学校国語科の授業プラン
 

内容としては非常に丁寧です。ALに関しても色々な資料を引きながら国語科に位置付けているので、小手先のテクニックではないとても良い本です。

ただ、実践の内容を見ていくと「言語活動はするけど、ALが目指すことは実現できるのか?」というような疑問があるのです。

一生懸命になるほど生徒が苦しむ?

ALについては、溝上先生の定義がやはりシンプルで示唆に富む。 

一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知的プロセスの外化を伴う。(下線は引用者による)

ここで言われていることが「一方的な」授業を乗り越えることと「認知的プロセスの外化」ということの二点である。

この定義を踏まえて上の吉川先生の本では「5分だけでいいので、生徒たち自身が「話す」「書く」「読む」(=言語活動)として彼らに返して」(PP.9-10)いくことの重要性を説明しているし、実際、溝上先生のご講演などを聞くと「まずは、大掛かりでなくていいので、振り返らせたり前で発表させたりすることが重要だ」というような趣旨のことを述べていることを聞いたこともあります。

そもそも50分、生徒に一方的に講義ばかりしているような授業を改善することが実は結構根深く難しいという事実があるからこそ、このような言い方がされるのだろう。

だから、第一歩としては「外化」を伴う活動がなされることが重要なのでしょう。

しかし、その「活動」を繰り返していく機会が増えるほど、技術的には習熟していくので、うまく話し合いはできるようになるが、その一方で、マンネリ化していくのも事実だ。

そもそも、ALが必要とされるようになってきた文脈は「知識偏重」を乗り越えて探求型の学びが実現されていくことにあることを考えると、いつまでも「5分の活動」ではいけないだろう。

さらに、個人的に衝撃を受けたのがこの前の京都の高校教育フォーラムでの森先生のコメントである。

この時の「オーバーワークになっているのではないか」というフロアの質問に対する森先生の回答の一つにあった「一生懸命、AL型の授業をやろうとしている先生ほど、生徒を特定の授業ばかりに集中させてしまう」という指摘は、自分の授業を振り返っても甚く反省することだった。

このコメントを聞いてから、国語科の実践書を見直していくと「特定の授業に集中させてしまう」という指摘がどれもあてはまってしまいそうなのだ。

たとえば、「並行読書」一つとっても、その有意義さや必要性については誰も反論はないだろう。しかし、それを単元に組み込み、並行読書をしてこなければ授業に参加できないという構造を持った時に、もう、国語科の論理が優先されて、他教科とのバランスだとか生徒の多忙さというものが捨象されてしまっている。

やらなくていいということではない。でも、並行読書のような「重い」活動を生徒に求めるときの他教科とのバランスは国語の実践書を読んでいたところで見えてこない。

当たり前である、国語科の実践書なんだから。

やらなければいけないことをやるだけで、簡単に生徒が干上がってしまう。しかし、そのことに教科に一生懸命になるほど気づかなくなりやすい。

「資質・能力」という観点?

この前の高校教育フォーラムで溝上先生はこの点について、大学がディプロマポリシーを掲げて、それを達成することを求められていることに類比して、小中高校においてもそれぞれの出口で「資質・能力」をきちんと評価して、教育することが必要だというカリキュラムマネジメントの視点を指摘していました。

この話を聞いて以来、一教科で身勝手に授業を作りこんでいっても「資質・能力」ということを保証することが無理なんだろうという気持ちが強くなっています。

また、その一方で、国語科のなかで指導しなければいけない「資質・能力」というものもあるのだろうとも思うわけですが、今までのものを振り返っても、他教科との関係の中で、国語科が保証しなければいけない「資質・能力」というものがどうも見えてこないのです。

まあ、何を疑問として、どういう道筋があるのかということについては、まだ自分の中で焦点の定まった問いではないので、答えがないのは仕方ないのです。

それよりも問題なのが、「周りとどのようにやっていくのか」という観点です。どうしたって、教員社会は人によって温度差はあります。それこそ、目に余るくらいに。

しかし、そのような中でも「出口」を保証していくためには、今までのように自分さえのんきに授業を作りこんでいてもどうしようもないという感覚があります。

うーん…困った。

*1:もっとも、この学会では、アクティブ・ラーニングという言葉を学会としては使いません。あくまでもアクティブ・ラーニングというのは参加者のほうです。

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