ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

ICTがオルタナティブ教育の可能性になる?

ネットで見かけたいくつかの記事をまとめて感じたことを書いてみるだけなので、タイトルほど大きな話はできないので、与太話として聞いてください。

詳しくオルタナティブ教育やICT教育について知りたい場合は、以下の書籍などを見てください。 

公教育をイチから考えよう

公教育をイチから考えよう

 

 ※参考過去書評①参考書表② 

21世紀のICT学習環境――生徒・コンピュータ・学習を結び付ける (OECD生徒の学習到達度調査(PISA))

21世紀のICT学習環境――生徒・コンピュータ・学習を結び付ける (OECD生徒の学習到達度調査(PISA))

 

 今回は参考文献も引かないで、簡単に書くよ!絶対だよ!!

N高校というイロモノ?それとも?

上記の書評の中でも少し書いたけれども、カドカワのやっているN高等学校については、オルタナティブ教育の一つになる可能性があるものだとみている。

nnn.ed.jp

昨日の東洋大学の入試の話も併せて考えると、それこそ大学に進学するまで「学校という箱」の中に押し込められる必然性が下がるような仕組みであって、今、「学校に来るのが当たり前、学校に来れない方が問題だ」というような不遜な態度をとる人々の考え方に180度転換を迫るような仕組みが少しずつだが作り上げられている。

もちろん、やっぱりニコニコがらみということや妙な行事のおかげでイロモノ扱いされている部分は否定できないのだけれども、そのN高校の可能性について、色々と考えているブログの記事を見つけたので、紹介します。

globalizer-ja.hatenablog.com

この記事の中で、以下のようなことを述べているが、「教育の仕組み」ということを考えた時に、かなり本質的なところをついた指摘だと思う。

そもそもにして、N高に進学しようという決断をすること自体が自主的である。どこの高校に進学するか、というのは大体の場合、受動的に決まる。入試の難易度、治安が良いかどうか、学費がどれくらいかかるか、とかそういう事だ。(中略)ただ偏差値が一番高いからトップ校に行くだけの事なのであって、その学校の選び方は完全に受動的で進学の際に先のことなど何一つ考えていない。

ところがN高に進学するには自分の意思が必要になる。どちらかというと、あえてN高みたいな高校に進学しようと思う人がN高に入学するわけである。(2016/09/02/22時確認)

この「進学しよう」という意思があるときに、選びうる選択肢が存在することに意味がある。今までも「通信制」という仕組みはあったが、インターネットと組み合わせることで、その自由度がグンと跳ね上がっている点が、今までの通信制とは一線を画しているように見える。

たとえば、大学受験対策として予備校の講師の授業を配信するなどのサービスが提供されることは、「学校の教師の授業に進学指導を期待していないし、学校に無駄に拘束されたくない」というような親にとっては、普通科高校の進学よりも魅力的に映るようになるかもしれない。

そもそも、日本の場合、「普通科」以外の進学は「受験競争から降りた」と見なされるような、「学ぶための選択肢がほとんどない」というような現実がある。

だからこそ、「大学進学もできる」という「選択肢」はオルタナティブ教育という観点でも可能性があるように思う。

別にN高校である必要はない

ここまで持ち上げといてこの言い方は酷いように見えるかもしれないが、別に自分としてはN高校に対して思い入れはなく、学校以外の選択肢が増えることや学校という場が既得権益として抱えている「学校に来させるということ」に対して疑問が沸き起こり、学校のあり方そのものが議論の対象になってくればいいと思っている。

それは現場の硬直した態度が変わるには、外圧しかないんじゃないかなぁと諦めたような思いを抱いていることが大きいのだけれども、学校という既得権益にあぐらをかいている教員の耳にも聞こえてくるくらいには、これらのサービスが大きくなればいいとは思う。たとえば、次のようなニュースも聞いている。

edtech-media.com

ベネッセが本腰を入れ始めたということは、学校に与える影響は少なくないでしょう。

学校の先生方は、「Classiの動画のほうがいい授業しているから、先生の授業は受けたくない」と言われたときに、激昂するしかできないとしたら、それはみっともない。

でも、そういわれる未来は近くまで来ているのだけれども、教員は何ができているのだろう?

ここまでこだわる理由は

なぜ、これほどオルタナティブ教育にこだわるのかと言えば、以前『公教育をイチから考えよう』の書評の記事でも言及した通り、日本の教育が自由なものになってもらいたいという願いからだけれども、目の前の出来事からすれば、以下のような理由がある。

ict-enews.net

学校という空間は、色々と息苦しい。そういう子どもにとって、学校にくる必要がない、学校という箱でなくてもきちんと教育を受けられる選択肢があることを願わざるを得ない。

それは、自分の目の前から去ってしまった子どもたちにも、きちんと生きていける道があって欲しいという願いであり、非常に個人的なものではある。

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