ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

【スポンサーリンク】

正直なところ、国語ってよくわからない

授業が始まって、細かく考えている暇がないので、どうしても雑記ばかりになってしまうのですが、懲りずにお付き合いいただければ。

昨日から東洋館の『「アクティブ・ラーニング」を考える』を読んでいるのですが、それを受けての感想です。 

「アクティブ・ラーニング」を考える

「アクティブ・ラーニング」を考える

 

このブログの過去の記事を見てくださっている方は、「こいつ、国語の教員なのか?」というツッコミをしたくなるくらいに、国語の話がほとんど出てこない、国語教育のブログを自称しているのですが、その原因の一つがアクティブ・ラーニングです。

まあ、そんなことと併せての現状の自分の立ち位置についてのつぶやきだと思ってくれれば。

言語活動の充実からアクティブ・ラーニングへと

もともと、自分が学生をやっていたころは「言語活動の充実」をどうやって実現するか、どうやって国語科が「言語活動の充実」の充実を担っていくことが議論されていたころなので、ある意味、アクティブ・ラーニングとは相性のいいことを大学・大学院で学んで現場に出てきている。

だから、「活動あって学びなし」だとか「素晴らしい講義もあり得る」だとかいう話については、理屈抜きの性根の部分では「そんな思い込みで話されても」くらいにしか思っていない。そもそも、自分が学校で何を学んだかと言われたら、何も教わった記憶がないので、たかが教員が教室であたふたしていることにそれほど価値を感じていない。

まあ、その後、塾産業にいたから、スパルタ式に鍛え上げるなり教え込むことで引き上げるなりすることの効率の良さはわかるし、そうした刺激によって開花する子どもがいることもわかるんだけど、もう、三つ子の魂百までといった感じで、教え込もうとする授業には共感できないし、講義型の授業にメリットを感じない。

だから、自然と、こうやってアクティブ・ラーニングの話がでてきたら、そちらにも食いつくようになるし、そうやって一人一人が自由に学べる方法について興味がでてくるのである。

だから、たとえば苫野先生の本*1などは発売当初から惹かれるものは多かったし、PBLなどについても、大学・大学院のころと色々と学んできた。 

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 

 ※かつて、自分が書いた書評は苫野一徳『教育の力』を読んで - ならず者でいこう!をご下さい。

たぶん、それは文学からの逃走じゃね?

でも、ふと思うと、そうやって国語教育の王道的なところに対して、勉強することが後手後手に回っているのも事実なのである。

大学院までで勉強していたのは、日本語学・文法教育のであるので、教育学部の大学院にいながら、国語教育については全くといっていいほど専門性はない。

それどころ、国語教員に必要な、文学の研究史や研究の態度や、主要な研究論文だってろくに読んだことはないし、下手すると必要な作品群すら読めているか怪しい。作品数の多くない中島敦だって全部読んでいるわけではないし、まして夏目漱石だとか読んでない作品のほうが多いんじゃないかと思う。

なんで、こんなことになったのかといえば、単純に文学が合わなかったというか、水が合わなかったというか……とにかく明確な理由はない。気づいたらこんなになってしまっていただけである。

嗚呼、少年老い易く学成り難しである。勉強できるときにまともに文学を勉強してこなかったので、こうやってならず者として生きているのである。

でも、思えば一番単純なところとして、たぶん、本を読むのもそれほど好きなわけではないのかもしれない。物語の世界に夢中になれる人の感覚が生まれてこの方わからないし、もう、ここまで来たらそうやって読むことはないんだろうという気がする。

だから、文学をやらなかったことはそれなりに自分の適性にあっていたのかもしれないが、結局、こうして今、子どもの前に立つときに苦心する羽目になるのである。

私立の就職面接会だとか受けましたが、文学部でない時点で門前払いもありましたし、国語の先生たちが文学を熱く説く姿をみても、居心地の悪さしか感じないのです。

まあ、そんな引け目があるせいか、今更、国語教育の花形である(と一般の人々には思われている)文学の授業なんてできない。

ある意味で、アクティブ・ラーニングなんかに走っているのは、そんな文学好きの教員に対する冷ややかな侮蔑なのかもしれない。

教育に対して熱くなれない

冷ややかなというのは、学校のすべてに対してなのかもしれない。

ホームルームで担任が生徒に対して熱く自分の信念を語ったり、生徒指導で社会から見たらつまらぬこと(といったら語弊があるが)にいちいち小姑のように指摘したり、子どもたちにおだてられることに満足そうにしていたりする教員の様子に、まったく共感できない。

むしろ、コンプライアンスに問題が多くある学校風習や部活動問題よろしく努力と根性で何でもどうにかしようとする教育者的良心というものには、辟易とすることは多い。

やる気があるように、そして熱いように見せるのは簡単だ。でも、そこに熱はなく、非常に冷めている。

だから、他の人が普通にできるような、「大切な価値観」を語ることだとか、「文学の素晴らしさを語ること」だとか、そういったステレオタイプのような教員としての形に入れない感じはする。もう、生理的に気持ち悪い。

それでも教員をやりますよ

しかし、ここまで文句を垂れながら、教員をやっているのは、別にそれ以外になれなかったからではない。

ある意味で教員は天職だとも思っている。熱がないから、生徒を冷静に見ていられるように感じるし、自分がベターだと思う仕事を我慢強くやっていられるように思う。

子どもが思い通りにならないことにイラつく大人は少なくないように思うが、別に、子どもに興味がない(仕事をしないではない。無視するでもない)ので、思い通りにならないことにイラつくこともない。淡々と理を説いて授業に向き合えるのは、悪くない仕事だと思っている。

たぶん、この先も講義型の授業にも良さがあるという意見には「論点が分かっていない」と言い続けるし、文学のよさや価値だとかについてもわからない国語教員であるだろうし、子どもに対して熱くならないのだろうと思う。

でも、そのことと、仕事に対して誠実であることは別問題…ですよね。

なかなか理解されないところですが。

*1:岩波新書のほうを間違って買わないように。同じタイトルでも質が違いすぎます。

Copyright © 2017 ならずものになろう All rights reserved.