ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

教員がアクティブ・ラーニングを始めるよりも先に読むべき一冊

今週のお題「プレゼントしたい本」

「プレゼントしたい本」と言われるとどうしても自分が信じていることを伝えてくれるような本になる。

今、教員としてほぼ新米ながらも、生意気にやりたいことをやろうと思っている原動力の奥底には、どうしても「大村はま」の名前を挙げないわけにはいかない。

昨今の教育改革の大きなうねりにおいて、「学力を保証しろ」だとか「知的基盤社会を生き抜くスキルが大切だ」だとか色々なことが教育には求められるのだが、そのような大きな変革を迎えるにあたって、今、この国の偉大な実践者であった大村はまの足跡を見直す必要はあるのではないかと思う。 

大村はまの著作は『大村はまの国語教室』をはじめ、多くの名作があるが、今回、「プレゼントしたい本」ということで、一冊を選ぶのであれば、国語教育の専門としない人にも、心に響く言葉が多く書かれている次の一冊を勧めよう。 

日本の教師に伝えたいこと (ちくま学芸文庫)

日本の教師に伝えたいこと (ちくま学芸文庫)

 

子どもの求めるものから、子どもから出発するということ

現在、国語教育界隈に限らず、教育に関わる多くの人々の間で「アクティブ・ラーニング」なる言葉が流行している。

これは日本の産業構造の変化や人口構造の変化に対応していくために、議論され、改革が目指されている中で、その目玉として出てきた言葉であって、教育業界では「アクティブ・ラーニングの本家本元は自分たちである」と主張したいのかというように、もはや百家争鳴で好き勝手に「本物のアクティブ・ラーニングとはこれだ!!」というような議論をしたがる人が増えている。

もちろん、溝上慎一先生をはじめ、この教育改革の話が出るよりもはるか昔から、アクティブラーニングについての研究などを行ってきた方々は多くおり、現状でも相当に研究と現場に好影響を与えている方々は少なくない*1が、正直、この変革を商売にしてやろうという輩も見え隠れし始めており、色々、うんざりすることも多い。

そのように大人たちが異様に過熱している現在だからこそ、この『日本の教師に伝えたいこと』の中で、大村はまが説く言葉を読み返すべきである。

ここに教科書があるから、ここにこの文章が読むから読むというのではなく、子どもの求めるものから、子どもから出発するということも、子どもが見え、子どもがひとりひとりとらえられて、初めてできることなのです。ひとりひとりに目をむけていない教育というのは、教育のなかに入りません。教育というのは、ひとりひとりを育てることであって…(中略)…ひとりひとりの力を養うことなのです。(PP.25-26)この一節が説かれたのは、今から四半世紀も昔のことである。それこそアクティブ・ラーニングなんて言葉どころか「ゆとり教育」なんて言葉もない時代である。

この一節が説かれたのは、今から四半世紀も昔のことである。それこそアクティブ・ラーニングなんて言葉どころか「ゆとり教育」なんて言葉もない時代である。

今の教育改革の、アクティブ・ラーニングの議論の中に、この「ひとりひとり」という観点が抜け落ちがちであることを深く反省しなければならない。

批判も多いのだけれども、上越教育大学の西川純先生のいう『学び合い』は、根本原理として「一人も見捨てない」ということを強調しているが、そのことについては否定の余地はないだろうと思うし、そのための手法として『学び合い』の合理性はある。 

高校教師のためのアクティブ・ラーニング

高校教師のためのアクティブ・ラーニング

 

もちろん、文科省や研究者などが視野にいれる「子ども」は特定の誰かに偏ることはないし、偏ってはならないのだけれども、教育改革という大きな文脈になった時に、現場の教員まで「子ども」という抽象的なくくりで授業や教育を考えるようになってはいないだろうか。自戒を込めて、言葉や情報量に踊らされずに教室に地に足をつけなければいけないように思う。

教育の効果を焦らない

現在の教育には厳しく費用対効果の説明が求められている。

ある意味、象徴的なのが「文系学部の廃止」という議論や「G型大学、L型大学」という議論などであり、アクティブ・ラーニングも「社会の要請」という面が強く反映されている話である。

その一方で、教育にかけるカネはどんどん減っているような状況であり、「安い、早い、ウマい」という牛丼屋みたいなことが教育屋にも求められているみたいだ。

そんな即席カップラーメンのような意見に振り回される前に、現場の教員は以下の大村はまの言葉を見直すべきだろう。

教育の効果というのは、何十年と先に花開くものですから、すぐ見えなくても焦らないことです。すぐ見えても有頂天にならないことです。自分だけで育てているのではありませんし、何かの加減でそういうふうになるのですから、よくても有頂天になってはだめですし、効果が見えないからといって、それが失敗と決まってはいません。ですから、よく考えて、(引用者注:教師が)自信を持ったことは、まっすぐに祈るような気持ちでやっていくのです。(P.146)

この指摘は、効果が出ないことに悩むことよりも、色々なことをすぐにやってみたいと思い、拙速に実践してしまう自分にとっては耳が痛い言葉だ。

自分の勤務校は先進的な教育をやる国立附属のような学校でもないので、珍しい授業や他の先生がやったことのないような授業をすれば子どもは喜ぶ。

しかし、そのような子どもの反応に有頂天になり、足元がおぼつかないような真似をしているのではないかと不安になる。

そもそも、「祈るような気持ち」になるほど、自分が授業に全力を傾けたことがあるのかさえも怪しい。

また、近年のアクティブラーニングの議論では「アクティブ・ラーニングでは基礎学力がつかないから駄目だ」とか「アクティブ・ラーニングなんてやっていると進学実績が落ちる」とかいう議論が頻繁に上がってくるが、大村はまも「単元学習」を実践するにあたって、以下のように批判されたといことが書かれている。

単元学習など、あんな危険なことをやっていると、入学試験におっこっちゃう、などということが言われてつらい思いをしました。おやおやと思ったり、心配したり、本当にそうかもしれない、だめかもしれない、おっこっちゃったらどうしようかと、心配もしました。(P.215) 

大村はまも人の子だったのかという冗談はさておき、いつの時代も「本当によい」と思っても、なかなか周囲に受け入れられないことは少なくない。特に新しいものや見たことがないものは拒絶されやすい。

単元学習もアクティブ・ラーニングも同じような反応をされているのを見ると、大村はまが信じた単元学習がどのような効果を上げたのかを見直すことに意味はあるだろう。

本書の「あとがき」の中で成人どころか70代になった教え子や壮年になった教え子が、国語教室で学んでいったことを活かして、豊かな言語生活を営んでいる様子が紹介されていることは、もっと評価されていいのではないか。

また、アクティブラーニングの旗手の一人である溝上慎一先生はアクティブラーニングの意義について「トランジション課題の解決にある」ということをいうが、大村はまが実現してきた「豊かな言語生活者を育てること」はその議論に連なる部分はあるように感じる。

例えば、話し合いで自分が口下手だという生徒に対して

「…だけれども、言うことがないよりも、ずっとまし。言うことがあったけれど、言わなかったんでしょ。言うことがなくては、ちょっと困るけれど、あってもちょっと言えないかったでしょ。そんなことかまわないし、相手によって言いたくないことだってあるから、それはいいけれど。ただそういうふうにやっていくと、世の中を生きていくには、世の中のためになる度合いが少し足りなくなるんで、それだけ幸せでないってことは覚悟しなければね。それはサッと発表して生きていくのと、黙って生きていくのとでは、多少寂しい思いをすることが、言わなかった罰みたいなの、あるかも知れないわね。それを覚悟すれば構わないですよ」(P.114 下線強調は引用者)

といったという。

一見すると非常に厳しい、突き放したような言い方に見えるが、教室での学びが社会とどのように繋がっていくのかという観点から子どもに話すことの意味を伝えていくことは、子どもの力を信頼していなければできないことであるし、教室の中だけで良い振る舞いができればよいと考える教員とは一線を画している。

大村はま自身の言葉を借りるならば「二十一世紀を生きる子どもたちを、話し合いのできる民主国家の一員に育てたい」(P.120)*2というように、「社会」を見据えた指導であり、これは溝上慎一先生のいう「トランジション」という発想と非常に近いものがある。 

高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)

高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)

 

この本の中でアクティブラーニングで「学力が下がった」だとか「進学実績が下がった」だとかいうことに対して溝上慎一先生が論理的に反論を書いているが、その考え方と大村はまが実践から体得して述べている言葉は共通する点が多くある。

教育は、拙速に効果を求めるようになっては、大きな目標を失うのである。10年以上の大きなスパンで考えられるようなゆとりが教員は持つべきだし、周囲の理解も欲しいものだ。

子どもに対して敬意を持ち、学びに対して謙虚に

本書の解説で苅谷剛彦先生が「ゆとり教育」に伴う学力低下の批判に併せて、「ストップウォッチを使ったドリル学習や、音読ブーム」が起きたことや「一種の流行になった「脳科学」のお墨付きを得たりして、これらは「科学的」な方法として広まって」いったことを述べているが、こういった「紋切り型のやり方で目に見える「基礎学力」をつけさせる方法」と大村はまの単元学習を対比させ、大村はまの指導を「子どもの学びを誘い出す」ものだと評している(P.244)が、このような実践が大村はまができたのはなぜだろうか。

自分が分析するまでもなく、国語教育学では大小さまざまな分析が、大村はまの実践には行われているので、自分が新たに情報提供できるようなことはほとんどない。

しかし、せっかくなので今回紹介するこの一冊から、大村はまがこのような優れた実践学習を行えるようになった理由を、少しだけ紹介してみようと思う。

教師自身が答えをもっていることを、授業の進行上、子どもに聞いたりする。それは相手を一人前に扱わない失礼なことだと思います。自分の知っていることを知らないような顔して聞くのは、普通の人にはやらないことです。子どもだからいいというものではない。子どもを尊重するとは、そういうことだと思います。(PP.218-219) 

ここから見えるように、大村はまにとって子どもは尊重すべき対象であり、決して子どもだからといって軽々しく扱う対象ではなかったのだ。

そうして尊重すべき相手であるからこそ、大村はまは子どもたちに対して謙虚に様々な手立てを用意し、子どもたちを「学びに誘い出す」のだ。

話し合いを行うこと一つを取ってみても、全員が話せることや話すことがなくて黙っていることの苦痛に居ても立っても居られなくなり、何度も何度も丁寧に教材を収集し、検討するし、良い単元を育てていくために時間も資金も惜しまずに本屋で図書を買い込み、その内容を吸収していく様子などは、もはや寝食さえも惜しんで子どもに尽くしているとしか言えない。

自分はここまで徹底して授業ができるようになれない。

しかし、軽々しくアクティブ・ラーニングで商売をしようとするようなことはせず、子どもたちに必要なことを考え、主張し、実践していくつもりではある。

真実のある教室に

西尾実の影響を受けて、大村はまは「真実のことば」を育てる教室にこだわったことが本書では繰り返し述べられている。

その「真実」の意味するところは禅問答に似た、教育をなんとするかという己の哲学が問われているようなものであって、簡単に答えは自分には出せない。

でも、軽々しく、「アクティブ・ラーニングなどはすぐできる」「今までやってきたことをやればアクティブ・ラーニングだ」というような言説や書籍に飛びつく前に、切実に「真実のことば」とは何かを追求した先達の実践を読み直す必要はあるのではないか。アクティブ・ラーニングの形態がどのようなものになろうとも、「真実」のある教室が否定されることはなかろう。

本書を手に取ると、大村はまの著作を手に取ると、自分が教員を続けていいのかという自信が揺らぐ。そのくらいに圧倒的に強烈な言葉しか語られない。

本書だって、たかだか文庫本一冊である。にもかかわらず、自分にここまでの長文を書かせているし、あらゆる教育の文脈を巻き込んでくる。

だから、今こそ、今だからこそ、ちゃんと先達の成果を見直しませんか。全集を変えと言いません、たった一冊、この本を読むだけでも世界は変わります。

『日本の教師に伝えたいこと』…その切実さは時間を経ても色あせない。

*1:この辺りの自分の主張は「アクティブラーニング」についての過去記事をご覧いただきたい。

*2:恐るべきことに、この言葉が述べられたのは今から四半世紀も昔である。

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