ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

「活用」をどう授業する?

テストの採点とその反省もあらかた終わりました。 

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やっぱり採点をしていて思うのが、どうしても「授業でやったことが力として生きているかが自信を持てない」ということです。この辺りには「活用」に関わる考え方が問題になってきそうな気がしている最近です。

これまでの自分の書いたもの

なお、過去記事は以下の通り。 

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この辺りを踏まえたうえで、少しだけ自分の実感などを……まとめてみるのは冬休みにでもするので、今回は箇条書き程度で…

活動と「活用」は一緒にしてはいけない

上の写真は今回の「羅生門」の学習課題に取り組むために、生徒が自主的に書いたノートの一部です(見づらいのは色々な配慮ということで…)。こんな工夫をしてくれた生徒であっても、ちょっと聞き方の違う出題の仕方にすると、全然、記述がかけなかったり考えが整理できていなかったりと、「ちゃんと勉強しているようでも、成果につながっているか評価していいか」ということに迷う場面が最近は増えました。

この辺りについてどう考えていこうか……と思っていたら、今月の『教育科学国語教育』に溝上慎一先生の「活用」に関する記事があり、それが参考になるかなぁと感じました。 

教育科学 国語教育 2017年 01月号

教育科学 国語教育 2017年 01月号

 

周知のとおり、溝上先生は神奈川県の桐蔭学園のALに関する指導・助言を行っている。その際には以下の本に紹介されている安彦忠彦先生の「活用Ⅱ」の考え方を全教科に取り入れているという。 

高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)

高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)

 

それらのここ数年の桐蔭でのALの実践を踏まえて、「活用Ⅱ」について原理の説明を行っているが、今回の『教育科学国語教育』で注目しておきたいのは以下の点だ。

④ (「活用Ⅱ」の)問題の特徴には大きく2つが考えれれる。

 1.実社会・実生活に繋げた、複数解が得られるような問題

 2.習得や活用Ⅰより高度な思考力・判断力を育てる問題 

⑤ 「アクティブ・ラーニング」の視点の1つ、深い学びを促す各教科の「見方・考え方」を採った学習とも言える。

この指摘で重要なのが、「活用Ⅱ」の「深い学び」との関係を明確に言及したことと教科の本質的な「見方・考え方」と関連することを述べたことだろう。

アクティブ・ラーニングの傾向として「実社会・実生活に繋げた」という部分の強調に寄りすぎている感じが否定できない。「実社会・実生活に繋げた」という発想があるからこそ「話し合いがいい」だとか「グループワークがいい」だとかいう安易な言い方がされるし、逆に「グループになじめない生徒をどうするのだ」だとか「知識軽視」だとか推進派と否定派でかみ合わない議論が起こりがちであるようにも感じる。

実社会・実生活に繋げた」からさらに踏み込んで「教科の本質的な見方・考え方」という観点を取り入れ、国語の「本質」とは何かを論じるとしたら、一言でそれを書くことはできないとしても、「話すこと」「書くこと」ができることも「聞くこと」「読むこと」ができることももちろん軽視できない。

テストで書けないとすれば…

正直、上述の『国語教育』の記事の中で溝上先生が言及している国語の授業実践は、「活用Ⅱ」という観点を導入したとしても、ちょっとどのような能力をつけさせたいのか、授業の活動がどのような能力につながっているかの意図が見えてこない。紙幅の都合とも思うが、やや活動と狙いとの間に乖離があるように感じる。

でも、似たような問題は、気を付けていたつもりなんだが、自分の授業でも起こっている。

冒頭の写真のノートは、生徒自身のアイデアで作成したものだ。授業で「こうしろ」と指示したわけではなく、自分が過去の授業で教わったスキルを組み合わせて「羅生門」に当てはめて「活用」してみた結果である。

でも、ここまで色々と考えて、工夫をしている生徒だとしても、さらに次の段階として「求められていることに合わせて情報を整理する」という形の活用をきちんとやる必要があるということだ。

つまり、「読むこと」の活用として使えている能力が「書くこと」には簡単には活かされないということだ。

考えてみれば非常に当たり前の話ではあるのだが、実際に授業の過程を経て、生徒の答案を見てという作業を自分がしてみるまで、「読むこと」で使えていることが、こんなにも「書くこと」では活用できないという落差について考えていなかった。

この辺りに単なる演習に近い「活用Ⅰ」から区別して、より高度で実践的で教科の本質に迫る「活用Ⅱ」を意識的に置いておく意味があるように思う。

深い学びを促す各教科の「見方・考え方」について国語科について考えるのであれば、「読み書き」が個人の中でバランスよく使えることに向かわざるを得ないのだろう。その時に、教える側が無自覚にすべてを同時にやろうとすると、何を意図しているのかが不明確な「活動あって学びなし」に陥りやすい傾向にあるように思う。

活動を超えて活用になるためには

あと一歩、自分が捕まえきれていないのが、「活動している」から「活用できる」への間をどう埋めていくのかということだ。

どうしても国語は「教えること」と「できるようになること」が重なるだけに、「活動そのものができること」と「活用できる」ということを峻別しにくい。

できないことはないとしても、定性的に200人なりの状態を逐一調べていくのは無理だかね……。こういう言い方をするのは誤解を招きそうだが、「ラクして」生徒を捉えられる方法がないと厳しいし、「フォーマット」的に指導や成績処理できる方法がないと、日々、追われていく教室ではなかなか実践が厳しいものがある。

このあたりのことを突き詰めていくとやっぱり大村はまなのか……という思考停止に陥るのはよくないですかね。

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