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ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

背伸びをさせるか、無理をさせないか、表面を取り繕うか

Venus

タイトルの通り。

定番教材の「手の変幻」の取り扱いに迷う。

やらせたいこと、身に付けさせたいことは決まっているのだけど、適する教材の候補の選び方に困る。

そうしてこんな時間である。今日、土曜日だぜ……。

生徒の実力を過小評価しない

油断すると「この文章はまだ無理だよね…」と生徒の実力を過小評価委して、読ませることをためらってしまう。

正確には、読める生徒もいるだろうし、読めない生徒もいるだろう。

ただ、全体のバランスを見たときに、過小評価気味に、無理をさせないような選び方をしてしまいがちなのだ。

でも、読める生徒はいる。読めそうな生徒はいる。支援があれば読める生徒はいる。

そうやって考えていくと、読めない生徒のほうが実は少ないのかもしれない。それほど多くない数の読めない生徒に対して、丁寧にフォローをするなら、多少の背伸びをさせることによって、大きな成長ができるかもしれない。

生徒に無理をさせない

自分のやらせたいことが先走り、あれもこれもと欲張りだすと、生徒のレベルをすっ飛ばして、とにかく大量に材料を投げてしまいがちだし、課題も大量になってしまいがちだ。

大人のやらせたいという気持ちは生徒にとっては不要な押し付けや無用な背伸びになりかねない。足元が安定しないのに、背伸びをするから危険なほどにバランスを崩すのだ。

難しい教材を読める生徒はいるかもしれない。でも、無理をさせることで自信を失うできていたはずの生徒がいる、そもそも読めない生徒がいる、自分には挑戦する資格もないと落ち込ませかねない生徒もいる。

少しの生徒のために、無理をさせるような文章を投げるのは配慮だとは言えないだろう。

表面を取り繕えば納得はする

見た目が似た文章を読ませることで理解が深まるような気がすることはないわけではない。実際、手の変幻と併せて読ませたい文章はいくつか見つけている。

しかし、内容的には近いことであっても本質的には別の概念や別の論理構成になっているということが分かってしまう文章しか手元にない。

表面的に取り繕えば、似たような作業はできる。でも、それは表面であって、本質的には違うことだと思ってしまう。

同じことだと思って力を伸ばす生徒もいれば、真面目に本質をとらえてその違いに悩む生徒もいるかもしれない。

結局、教材からスタートする不毛

なぜ「手の変幻」をやるかと言われたら、自分にとって必然性はない。ただ、カリキュラムとしてやらないといけないからとしか言いようがない。

そんなところに無理に工夫をして生徒に読ませようという作業が、車輪の再発明のような徒労感がある。

初めから、もっと自分の教える生徒にあった題材を渡せばいい。でも、上下左右との協調が必要な異常は、勝手なことは言ってられない。

苫野一徳先生は「学びの<個別化>」の重要性を各所で説いている。 

教育の力 (講談社現代新書)

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勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方

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どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)

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公教育をイチから考えよう

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どうやって「教材」ありきの国語の組み立てでは「一斉アクティブラーニング」にしかなりにくい。

でも、世の中のほとんどの人は自分と同じように上下左右に縛られているはずなんだ。だからこそ、教材からスタートしてしまう単元であっても、個別のアクティブラーニングを目指していきたいし、そんな実践を唱えてみたいのだ。

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