ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

【書評】戦争・暴力の対義語は?暉峻淑子『対話する社会へ』

Bombing

先週はいよいよ学習指導要領の解説が出ましたね。

新しい指導要領におけるキーワードは「主体的・対話的で深い学び」というのは、比較的人口に膾炙してきた感じはあります、

とはいえ、それぞれ「主体的」「対話的」「深い」とは何かという内実については、誰もよく分かっていない感じはあります。もちろん、それを理由に「主体的」「対話的」であることや「深い学び」を目指すことが否定されるわけではありません。否定的な意見はほとんど言葉遊びの問題であって、「主体的」「対話的」「深い学び」ということ自体は否定はされていません。

個人的にここ数年、自分自身の経験から考えて重視して考えているのが「対話的」とは何かということです。簡単に結論も出ないし、生徒に授業で強要する割には自分が外に出て対話的でなかったりするのですが、それでも対話の意味を考えています。

そんな自分が強く共感できたのが以下の一冊です。 

対話する社会へ (岩波新書)

対話する社会へ (岩波新書)

 

一見すると「対話」のイメージから遠い「経済学」の学者が社会に対して「対話」の意義を問うという本書の構造も面白いなぁと感じます。

民主主義の土台としての「対話」

本書は様々な事例を紹介し、「対話」について考えていますが、一貫して何度も出てくるのが「民主主義」という言葉や「市民」という言葉だ。

現代の社会は言うまでもなく「民主主義」の社会であり、一人一人に「自由」が認められている。そのような時代でありながらも、近年のナショナリズムやポピュリズムの台頭によってその原理原則が根底から揺らいでいる。

本書の冒頭に「対話が続いている間は殴り合いは起こらない」というドイツのことわざが紹介されていることとは対照的に、現代社会は対話を拒絶し、短絡的で衝動的な行動を取りがちである。

教員なので「学校」という単位で物事を考えがちであるけど、やっぱり学校においても決して対話が十分に行われているとは言いがたい。本書の中でも第四章の一例として学校での対話の喪失が述べられており、学校現場の閉塞感がよく言い当てられているように感じる。

自分の勤務校もこの本の例ほどおおげさなことではないとしても、ちょっとしたときに対話の不足は感じざるを得ない。会議に対してそれぞれの教員が無関心であること、それにも関わらず決定事項には否定から入る態度を見せる教員、子どもの話を聞かない教員や教員に語ることをあきらめる子ども……文字だけで書くと大げさに見えてしまうけど、実際、毎日繰り返される「対話不足」だ。

「民主主義の担い手」を育てることは教育基本法の理念から考えても、学校の最大のミッションだと思うのだが、まるで逆の状態だと思わざるを得ない。

「対話」がないところに民主主義なんてあり得るのだろうか。

人は「対話」に飢えている

本書はただ社会に「対話」が失われているということを悲観的に批判するだけの本ではない。重要なのが人々が本質的に「対話」を必要としてることを言い当てていることだ。

もともと効率化をめざす競争社会に対話は成り立つのでしょうか?自己防衛本能が強い人との対話は成り立たないともいわれます。そういう社会に息苦しく生きていて、人間としての本当の言葉に出会うことの少ない人びとが、対話に飢えているのは、自然なのかもしれません。甘味料やソーダ飲料ばかりを飲んでいる人が、添加物のない自然の水を飲みたいように。(P.68)

 「本当の言葉」とは何か。本書の別の個所で以下のようなことが書かれています。

一般に向けて話される、どこでも聞くことのできる言葉ではなく、自分が問い続けている問題に対してかけがえのない応答を求めているようでした。

社会人であるとともに、個人でもある人間にとっては、一般論での話も必要ですが、とくに自分でなくてもいい、誰でもいい相手としていつも扱われているだけの生活には、生きている情感が伴わないのではないかと思います。(P.81)

 この「かけがえのなさ」という感覚を持っているか持っていないか。残念ながら現代社会ではその感覚は失われやすい状況にある。

「かけがえのなさ」を得るためにSNSにのめり込むものの、かえってそのような行為は実生活を空しくし、対話から遠ざかり、かけがえのなさを失わせてしまう……そんな議論が世の中で目につくようになって久しくなった気はする。

やっぱり自分の「教室」を考えてしまうけど、「対話」が簡単に失われる瞬間は数多くある。教員は自分の指導を他人から検証受けることを極端に嫌う*1し、生徒は教員からの否定に慣れすぎて教員と対話することを諦めている*2し、子ども同士も「あいつにいっても無駄」となれば初めから協働し、仕事はいつでも気づいた人間にばかり圧し掛かる。

そんな中でしょげてしまっている自分の「かけがえのなさ」を恢復するためには、やっぱり我慢強く対話が必要なのだろう。

このあたりの話は、苫野先生が「自由の相互承認」という言葉で何度も著書で語っていることに重なる。

www.s-locarno.com 

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)

はじめての哲学的思考 (ちくまプリマー新書)

 
教育の力 (講談社現代新書)

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勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方

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「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学 (NHKブックス)

 

お互いに認め合えなければ息苦しい。 

自由の相互承認 ?? 人間社会を「希望」に紡ぐ ??: (上)現状変革の哲学原理 (iCardbook)

自由の相互承認 ?? 人間社会を「希望」に紡ぐ ??: (上)現状変革の哲学原理 (iCardbook)

 

そして、その「対話」がただの一方的な「説教」や「討論で相手をやり込めること」になってしまってはいけないのだろう。

「対話」を実現するために何が必要か

 本書は「対話」を実現するために、「対話」の思想や「対話」をめぐる実践を数多く紹介している。個人的に印象に残ったのが「子ども」が対話することを数多く記録して紹介していることだ。

これからの社会を考えたときに「対話」を社会に実現する中心的な役割を果たすのは、今の子どもたちであることは間違いない。この本で暉峻先生が子どもたちに寄せている期待の大きさを感じると、子どもたちを育てている我々教員は身が引き締まるような思いがする。

個人的には「哲学対話」にも興味はある。 

「こども哲学」で対話力と思考力を育てる (河出ブックス)

「こども哲学」で対話力と思考力を育てる (河出ブックス)

 

ゆっくりと話して、相手を認めてというプロセスが必要となる実践だ。果たして、今の自分の環境で実践できるかということや実践してかえって悪影響を及ぼすのではないかという疑念がぬぐえない。

ただ「対話」をしていこうと思うだけで、日常がどれだけ対話が不足しているか思い知る。

戦争・暴力の対義語は

最後に本書の一文を引用して終わりにしよう。

戦争・暴力の反対語は、平和ではなく対話です。

 

*1:勤務校では一切教員の研究授業がないのは、口出しされたくないからだと思っている

*2:これは教員の態度が悪い。子どもを指導する必要と子どもを対話の相手として認めることは別問題なのに、子どもを指導する必要から対話の必要性を否定してよいと思っている大人のなんと多いことか。

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