ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

レポートが書けることと答案が書けるようになることは別

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真面目な考察というよりはただのメモ書きです。

今回の考査で彼らは高校生活の定期考査の折り返しです。それだけにこれまで何度も記述問題を大量に課してきたことで、成長の成果が見られるといいのだけど……まあ、甘くないのかなぁという感じである。

当たり前のことを毎回確認する

何度も自分に言い聞かせなければいけないこととしては、テスト問題の記述問題が書けることと小論文やレポートが書けるということは別のことだということ。

何だか、国語のテストで点数が取れることとちょっと上手く文章が書けることを混同して周りからはとやかく言われがちなのだけど、まったく別の能力なんだろうなあということを、指導者で作問の作成者である自分がブレたらいけないんだろうなぁと思う。

国語のテストができない生徒がちょっとした文章を上手く書いて評価が高かったりするとまぐれだとか口だけは達者だからだとか言って、まともにどんな能力を持っているのかを評価しない人が多いけど、それはそれとしも、それなりの文章を書けるように指導するのは大変なんだぞ!!(笑)冗談はともかくとして、国語の試験が悪いだけで、他のことが何もできないような見方をしたら、伸ばせるものも伸ばせなくなる。

ま…テストの点数と文章のうまさは相関してそうな感じは何となく感じるけどね!

でも、別の能力だと思ってどうやって指導するのか、どうやって評価するのかという気持ちがないと、考査で採点しているときにまともに記述が書けないことにイライラしてしまう。いかんいかん……もっと自分がぶれないようにしないと。

テストの記述に個性はいらない

基本的にテストの記述に個性は要らない。ただ、丁寧に問われていることに問われている程度の質で答えればいいだけである。

その「問われていることが何か」ということや「どの程度で答えるか」ということを掴むのは、問題演習でどうにかなる。基本的に自分がどう考えるかということをあまり前面に押し出してはいけないし、問いを作った側の狙いを探って答えていくものである。

場合によってはパズルだとかキャッチボールだとかいうけど、出題者の想定に収まらないといけない。

だから、出題者は手を変え、品を変え、「こういうことを読んでね」というヒントを出しているのだけど……気づくような余力があれば国語はできるようになるね。問題だして採点している側となると、「この問題ならこれしか聞き手は興味ないのに、どうして勝手なことをいいだすんだよ…」とイライラすることがままある(笑)

これもどこかで教えなければできるようにならないことなんだろうけどね、実際。でも、そんな「出題者の意図はこうやって考える」みたいなつまらないことをやる気が自分にほとんど湧いてこないし、それが何なるんだろうと、さっぱり興味がわかない。

好きに書けばいいと思うけど

好きに書けば、書けるようになるよという思いはあるし、入試の記述がいくらかけても自分の言葉で面白いことが書けることにはならない。

でも、そんなことを大声で言ったら「論理的な力がー」とか面倒なことを方々から言われるので、それに反論するのも疲れる。

とはいえ、好きに書けばいいと言っても、実は好きに書きたいことを書くということを実践すること自体が生徒にとってはハードルが高い。

生徒は自分の言葉と思い込んで、どこかで聞いたことあるようなつまらないことを表面的に繰り返す。その表面的な整い方に違和感を覚えて、つついていかないとダメだよなあ…と思う。

そんな、他人のことばをつなぎ合わせるような書き方だけを教えて、卒業させたら教員として何を仕事をしたことになるんだ?

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