ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

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サブカルと国語の授業

Culture

サブカルは好きですか?

自分は年甲斐のないサブカル趣味が捨てられません。今更、引き返すことはできないのです。三か月ごとにテレビ番組表と格闘しみ毎月10日前後には電撃文庫を読み漁るくらいには。

そんなこともあって、サブカルと国語という関係はちょっと気になるところはある。 

「サブカル×国語」で読解力を育む

「サブカル×国語」で読解力を育む

 

国語科教育でもサブカルを授業に使えないかという試みは実はあるのです。

身も蓋もないことを言ってしまうけど…

普段は著者の教育観や国語教育の実践という文脈を組んで「こういうことが大切ですよね」というノリでブログを書いているのだけど、今日だけはその文脈を一切合切、放棄させてほしい。そのことでこの本の内容が劣っているということではないということを先に断っておくし、個人的にこういう実践や考え方を否定するつもりはない。

だけど、自分の趣味に近いところだからこそ、もう直感的に言ってしまうけど、真面目な文脈で、授業なんて文脈でサブカルを扱っても、四角四面でまじめすぎて根本的に面白くないにもほどがある。岩波書店で出したからなおつまらなくなっているんじゃないか?明治図書あたりの軽い本で軽く出したほうがよかったんじゃない!?いや、そういう問題でもないな。

とにかく徹頭徹尾、サブカルとしての面白さがさっぱり感じられない。

自分も国語の教員だからそれぞれの教材をどうやって位置付けることで生徒にどんな力をつけさせたいかという著者の意図することはよく分かる。

でも、根本的に「サブカル」として面白くない。もし、こういう授業を自分がやられたら「よく理解もしていないくせに中途半端に歩み寄ってきて気持ち悪い」という気持ちが先に立つ。

例えば「ドラクエ4」で「書くこと」の授業案などもいくつか挙がっているけど、イタくて直視に堪えない。あの…ドラクエ4をちゃんと遊びました…?ファミコン、PS、DS、スマホとリメイクも含めて徹底して遊び教材研究しました?こういうことをやらせたいということが透けていて痛々しい。分かりもしないし分かる気もないのに分かった気ですり寄ってくるリア充どもの生暖かい視線の鬱陶しさを思い出します*1

「サブカル」って自分にとっては楽しいけど、決して大っぴらに交流したいものでもないからだ。何となく同じ好みの人間どうして緩く繋がりたいだけであって、「こういうことをやらせたい」という意図を押しつけられてやりたいことではない。

本書の中で挙がってきている作品もジブリアニメだとか「あさきゆめみし」だとかドラクエだとか……基本的にはサブカルのなかでも比較的一般に認知されているものだ*2。 

あさきゆめみし 漫画文庫 全7巻 完結セット (講談社漫画文庫)

あさきゆめみし 漫画文庫 全7巻 完結セット (講談社漫画文庫)

 

国語の教員がなんたらの一つ覚えでやたらと受験生に「あさきゆめみし」を勧めるけど、生徒としては別に面白くもなんともないからね!?もっと面白い漫画や絵が好みの漫画あるからね*3。だったら割り切って受験対策って言い切ったこちらの方がウケがいい。 

「源氏」でわかる古典常識―大学受験らくらくブック (新マンガゼミナール)

「源氏」でわかる古典常識―大学受験らくらくブック (新マンガゼミナール)

 

話がズレたけれども、結局、「中途半端」に生徒に迎合するような形でサブカルをダシにするのは印象が悪いし、その素材が持っている良さを台無しにする

サブカルの扱いが悪いと感じる

本書の問題意識は「学びから逃走する子どもたち」に学びへの意欲を再び喚起することにある。その可能性の一つとしてサブカルチャーを検討しようという。

「逃走」した子どもたちを強制的に「学び」の場へ連れ戻すというのは、もはや時代遅れの「子ども―大人」の主従関係のなせる業ということになる。子どもたちが逃走を企てた場所、彼らが棲息する「いま、ここ」という地平に、新たな「学び」を立ち上げることはできないものだろうか。興味・関心を有する様々な素材に注目して、まさにその素材を通して国語科の「学び」が成立する可能性を追究する。それらの多くは、一般に「サブカルチャー」として括られるものであった。(P.11)

しかし、この議論はやや拙速であるように感じる。議論としては「子どもの学びからの逃走」があり、その行きつく先に「サブカルチャー」があるから、子どもの実態に即して「サブカルチャー」を教室で扱おうという意図は分かるが、それはやっぱり国語科教育側の都合でしかない。結果として、「実態に即して」という部分が拙速であるので、中途半端に生徒に迎合したように見えるし、実際、自分が生徒の立場なら「よく分からないくせに…」という気持ちが強くなるだろうと感じる。

なぜ、生徒が「サブカルチャー」に逃走するのかという観点が弱いのだ。本書の「子ども―大人」という主従関係の類比として「サブカルチャー―カルチャー」という構造は考えられる。

この構造からすれば、「カルチャー」から逃避をして「サブカルチャー」に逃避した「子ども」に対して「大人」が「サブカルチャー」を「カルチャー」として押しつけようという構図が生理的に気持ち悪い。いい歳した自分のような大人がサブカルにどっぷりつかっているのが気持ち悪いのは、大人になり切れていないように映るからだろうしね。

だから、本書の議論や意図を無視してバッサリいってしまうけど、「サブカルチャー」なら子どもの気を引けるだろうという「大人」側の傲慢さが透けて見えるから痛々しいのだ。サブカル好きからすれば、やっぱり「よく知らないくせに…」とか「好きなことをバカにされた」とかそういう感覚をぬぐえない。

じゃあ、サブカルは教室に持ち込めないか

感情的な言い方をして、否定的な言葉を並べているので、自分はサブカルを授業で使うことを否定しているように思われるかもしれないが、そういうわけでもない。

やっぱり自分がサブカルが好きだからサブカルを授業として使ってみたいという気持ちはある(笑)

 例えば「魔法少女まどかマギカ」が自分は大好きですが

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

 

成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論

成熟という檻 『魔法少女まどか☆マギカ』論

 

を抜粋して、評論の文脈で映像と組み合わせて授業をしたことがある。その時は「完全に個人の趣味だから文句言うな」という完全に自分のための授業と生徒に押し付けた*4(笑)

でも、あくまで自分が好きだからということの方が大切だった。決して、生徒のために何かしようという意図ではない。結果的には、それでまどマギファンを増やせたのでOKである*5

「サブカル」と教室という場の問題は、根本的には「自由読書」と「一斉授業」の対立にも近いものがあるように感じる。個人の読書は大好きだけど、教室で読まされるのは苦痛だという生徒は少なからずいる。

リーディングワークショップを去年やった時は、絶対に教室では本を読まないような生徒が進んで多くの本を読んでいたけど、それらの本は、絶対に教室では扱わないような本だった記憶もある。自分にとって「よい本」が教室でよい本にならないことで、読む機会や読む意欲を奪っている可能性はよく考えたほうがいいだろうと思う。また逆に「よい本になるんじゃないか」と教員が押しつけたら、その本が「よい本」ではなくなってしまうのではないかとも思う。 

www.s-locarno.com

サブカルと自由読書……。

いつだって教室は面白くないものです。

*1:個人の感想です。

*2:ネタが若干古くて共感できねえ!ということは脇に置こう。この際。

*3:個人的にも「あさきゆめみし」の絵は無理である。

*4:あくまでカリキュラム外である。

*5:OKではない

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