ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

【実際にやってみた】高校の教室での協働的な学習の様々な方法の例―その2【不定期連載】

Parties discuss

不定期連載の二回目。

本日は高校の教室において「話し合い」をさせる意味があるかということについて、自分の実践で得られたことを書いておきたいと思います。

前提条件の確認

なぜ、授業内容自体も高度で、なかなか時間も厳しい高校の国語の授業において「話し合い」を取り入れる必要があるのか。

それは学習指導要領が現行のものも、改訂後のものも「言語活動の充実」や「主体的で対話的な深い学び」が言われているから……なんて言ったら身も蓋もないのですが、前提条件として教員個人の主義主張以前に「生徒同士の交流」を軽んじることはできないということは知っておいてよいでしょう。

「一般的な」高校の教室が旧態依然とした教え込み型でありがちで、一歩間違えると「学者もどき」に雑学を面白おかしく教えることが教養だと思って授業している教員がいるなど、「話し合いなんてさせても意味がない」という意識の教員が小中学校に比べて非常に多い。だから、意地の悪い言い方だけど「個人の主義主張に関係なくやれと言われている」というスタート地点を確認しておくべきだ。でないと、「出る杭は打たれる」ではないが、「話し合い」をさせていることをあたかも「授業力がなくて遊ばせているだけ」と批判してくる教員がいないわけではない。だから、自己防衛の意味でも「決まっていますよ」と言い張っておくのも精神的にはお守りになろう*1

高校生が「話し合い」に食いつくか

まあ、持って回った言い方をしたけど、本題に入ろう。

協働的な学習を始めて授業に取り入れようとしたときに、普通の教員が悩んでしまうことは「高校生が話し合いに乗ってくるか」ということであろう。

話し合いをさせて沈黙が何分も続くような状況に陥ることは、教員にとってはとてつもなく恐ろしいことだ。だからこそ、「話し合い」をやらせる前に、少なくとも生徒たちがその授業に乗ってくるかということは確かめておきたいと思うのは、授業者としてはよく分かる話だ。

結論から言えば、「高校生だってちゃんと場があれば話し合いに食いつく」と思う。

「話し合い」ができるということは、お互いにお互いの意見が尊重されているという感覚が成立しているということだ。だから、きちんと「話し合い」ができるという状況があるのであれば、生徒にとっては居心地のよい場になるはずである。

例えば、以前に紹介したこの本。 

ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方

ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方

  • 作者: キャロル・アントムリンソン,Carol Ann Tomlinson,山崎敬人,山元隆春,吉田新一郎
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2017/03/17
  • メディア: 単行本
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生徒を「生徒」というラベルでみるのでなく、「一人ひとり」という見方をする時に、生徒を「生徒」として黙らせておくことなんてできないのである。

数多くの「人を動かす」というテーマの本が「人の話を聞け」ということに集約されるように、大人だって自分のことを話したければ自分のことを聞いてもらいたいと思っている。 

PRESIDENT (プレジデント) 2017年7/31号(人を動かす黒い心理学)

PRESIDENT (プレジデント) 2017年7/31号(人を動かす黒い心理学)

 

自分自身が何者かということに確固たる自信のない高校生であれば、なおさら自分の言葉を語れる場や自分のことを聞いてもらえる場があるということの意味は大きい。

だからこそ、高校生は「話し合い」の場をきちんと整えて提供することができれば、小中学校とは一味も、ふた味も違う、本当に高度な場所までたどり着いてくれるし、自分たちしか作れない雰囲気を作れる。小中学生では出てこない問題意識の高まりは、高校生の特権だとも思う。

でも、決して「話し合い」の場が成立することは簡単なことではない。

高校で「話し合い」をするために

ここまで盛り上げておいてはしごを外すような言い方をするけど、高校生に話し合いをさせるのは、小中学校とは違った難しさがある。もしかすると、「発言しない」ということの手ごわさでは、小中学校以上かもしれない。

どうやったら発言するようになるだとか、話し合いができるようになるかということについては、別に自分が偉そうに語るのは申し訳ないくらいに良書があるので、そちらを参照してほしい。 

交流 ―広げる・深める・高める― (シリーズ国語授業づくり)

交流 ―広げる・深める・高める― (シリーズ国語授業づくり)

  • 作者: 福永睦子,藤森裕治,宮島卓朗,八木雄一郎,日本国語教育学会
  • 出版社/メーカー: 東洋館出版社
  • 発売日: 2015/08/08
  • メディア: 単行本
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例えば、こういう本ね。もっと言うなら大村はまの実践はとにかく「話し合えること」を大切にしているので、ものすごく力を入れて「話し合い」を指導しているので、そこから得られる実践知は非常に優れたものがある*2。軽く論文を検索するだけでも、豊富に情報を得られるはずなので、ぜひ読んで欲しいものだ。

ただ、こういう本の多くはやっぱり小中学校の実践が中心だ。別に高校の実践が皆無というわけではない。単純に商業的に高校向けは売れないから(笑)だろう。だから、どうしても情報が少なくなりがちだ。

少しだけ自分の手応えについて言っておくのであれば、

  1. 基本的には小中学校と同じで、話し合う必然性と話し合いたい内容があれば、生徒は自由に話し始める。
  2. 話し合うということが「相手を尊重しながら聞く」「相手に分かるように話す」「話し合って成果を出す」など、様々な技術が必要なことであるので、話し合いの技術の指導を丁寧にやる必要はある。
  3. 心がまえや話し合う態度として「安心」して発言できる場を作ることを納得させ、実感させ、実践させることが難しい。
  4. 高校生だからできるだろうと手放さない。
  5. でも出来ないからと言って教員が出しゃばるべきではない。

と、まあ、月並みだけどこういうことを強く思うようになっている。

月並みなことではあるけど非常に手間はかかる。だから、正直、一斉授業の効率性に比べると「本当に効果があるのか」ということに悩む必要はある。話し合いが良いものだとしても、カリキュラムをこなせないなら意味がない。

でも、苦労してでも話し合いを成立させるための労力を割くべきだと思う。それは『ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方』の中で「私たちがすべての生徒に求めるべきこと、つまり、リスクを覚悟し、手足を伸ばし、ぬるま湯に漬かったような状態から少しだけ前進することを日々追求している教師」の方法論として生徒をつないでいくことの覚悟が求められているように、本当に生徒を生かすことを考えるのであれば、教員が負わなければならない手間なのだろうと思う。

少しずつでも生徒が変わる

放課後、教室を見回ると、生徒が国語の教科書を開き、好きな文章について友達同士で「あーでもない」「こーでもない」と勝手に話し合いをしている様子…しかもそれが一か所ではなく、複数個所で自主的に行われるようになったのであれば、教員としてこれほど頼もしいことはないと感じる。

一年半、こうして徹底的に話し合いを行わせて授業を行ってきたけど…まだ、その領域にはたどり着けません。話し合いを文化として根付かせることは、とても大変だ。

本当に、大切だと思うなら、すぐに始めなければ、三年間なんて短すぎる。

*1:なぜこんな回りくどいことを言っているのかと言えば、それだけ「話し合い」をさせることだけにさえ文句言われることがあるからだよ……。

*2:裏を返せば「国語は文学ばっかりで話し合いの技術を教えないから劣っている」なんて批判はあるけど、それは国語教育的には否定したいところだ。まあ、意地悪な言い方すると自分が教わってきたものが偶然、悪い例だというのにそれを挙げて全体を論じるのは筋が悪いよね。

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