ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

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的の外れたアクティブ・ラーニング批判を批判してみる

Heroes at Heart

とりとめのないつぶやきです。なぜか定期的にアクティブ・ラーニング批判で検索流入が多くあるので、まあ、少し書いておきましょう。

そんな厳密で繊細な議論をやる気はあまりないです。思いつき、思いつき。どちらかというと暇つぶし?

要約というか結論を一言で言うなら…

答申と指導要領の解説を読めばわかる。以上。

中学校学習指導要領解説:文部科学省

それだけだと見も蓋もないので…もう少し。

たいてい、アクティブ・ラーニング批判をしている方の過半数は答申を読んだり、指導要領の解説を読んだりしないで、わーわー言っている場合が多いのです。

「活動あって学びなし」なんてアクティブ・ラーニングが出てくるよりも、ずっと以前からいろいろな教科や活動で言われているわけで、そんな批判は今更である。答申や解説にもそれに類することは書いてあるのです。そのあたりの事情などもあって、「アクティブ・ラーニング」という言葉が後方に下がって、「主体的・対話的」に加えて「深い学び」が付け加えられているわけですし。

カ 基礎的・基本的な知識及び技能の習得に課題がある場合には,その
確実な習得を図ることを重視すること。

(学習指導要領解説編総則より)

知識を軽視して活動重視どころか、「基礎基本くらいきちん徹底してとやれ」と言わんばかりである。

あれもこれもそんなにできないよ!という批判に対しても、先回りして「カリキュラム・マネジメント」が重要だと「ちゃんとやれ」と仕組まれているという。

なかなか欲張りなので、達成できるのか…?という批判は成り立つかもしれないけど、まあ、無理してでもやらないといけないよね、というのが今度の指導要領の基本的なスタンスだと言えそうだ。

いや、ホント、やること盛りだくさんだな(笑)明治の学制の制定、戦後の教育の民主化に続く、第三大改革だと一部で言われるのも宜なるかなというわけです。

今までの延長線で十分です………か?

よくあるアクティブ・ラーニング批判に「今までも十分に生徒をアクティブにさせる授業はあった」という批判がある。国語科としても例えば「単元学習」という形で大村はまなどが実現してきた授業は、なるほど、確かにアクティブ・ラーニング、「主体的・対話的で深い学び」と言って差し支えなかろう。実際、指導要領の中でも「児童生徒に求められる資質・能力を育成することを目指した授業改善の取組は,既に小・中学校を中心に多くの実践が積み重ねられており,特に義務教育段階はこれまで地道に取り組まれ蓄積されてきた実践を否定し,全く異なる指導方法を導入しなければならないと捉える必要はない」と明言されています。

しかし、「今までの延長です」という言葉をあえて強調しているときは、かなり怪しい言説なんじゃないかなぁと思うわけです。

頭の中がアクティブかどうかという迷説

よく「生徒に任せて質の高い授業にはならない」とか「教員の優れた発問によって生徒の思考が活性化される」だとか言い出す人がいる。なるほど、確かに優れた発問は生徒の「主体的な学び」を引き出す可能性はある。実際、次の本は自分も優れた一冊だと思う。 

発問―考える授業、言語活動の授業における効果的な発問―(シリーズ国語授業づくり)

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しかし、良い発問をすることと一斉授業を肯定したりアクティブ・ラーニングを否定したりすることは同義語にはならない。特に、一時間教員が子どもたちに喋り倒す授業であっても、それが思考を活性化させるなら意味がある……なんて言説は教員には人気はあるけど、個人的には最悪な主張だと思う。

よく「発問によって生徒の頭が活性化されて深い学びがもたらされる」と行った具合に、教員主導の授業を肯定しようとする意見を目にするが、おそらく、そのロジックは以下のようなものだろう。

  1. 優れた発問は生徒の思考を活性化する
  2. 生徒の思考が活性化されれば深い学びが実現できる
  3. 効果的な発問をする責任が教員にはある
  4. よい発問は教員の専門的な教材研究の結果、作ることができるものである
  5. よい発問をきちんと生徒に伝える必要がある
  6. だからよい発問をするには教員主導でなければならない
  7. アクティブ・ラーニングではよい発問をする時間が取れない
  8. アクティブ・ラーニングではよい発問が出てこない
  9. アクティブ・ラーニングではよい発問をしてもそれを深める時間が取れない
  10. だから、アクティブ・ラーニングでは深い学びは実現できない

……うん、よく分からない。個人的には面倒くさい気持ちを抑えてかなり発問したがりの人々に譲歩して書いてみたけど、上の理屈で「うん、そうだね」とはあまり理解できない。

たぶん、一つ一つの要素については「うん、まあ、それも一理あるよね」*1と言ってもいいだろうけど、総和で見たときによく分からない。でも、多くの議論はその「わけのわからなさ」よりも「なんか、一個一個は正しい」という方に目を奪われがちである。基本的に、教員は「アクティブ・ラーニング」否定派の気持ちのほうが強いので、まあ、そうなるよね、うん。

この手の議論は一つ一つの要素は正しそうに見えるだけに、厳密に「それは違うよ!」と言おうと思うとえらく手間がかかるので、他の人に議論を譲りますが、自分の方から主だった反論としては2つある。

第一に、「頭が活性化される」だとか「頭の中がアクティブになる」だとかいう主張は、聞こえはいいし、経験的に共感できないこともないが基本的には検証不可能の議論である。じゃあ、「深い学び」は検証できるのかよ!?と言われるかもしれないが、少なくとも各教科について「見方・考え方」を働かせて「資質・能力」を伸ばすことと指導要領は定義はしている*2ので、「頭の中がアクティブ」とは異なり、評価「規準」はある。少なくとも「発問によって頭の中がアクティブになる」という反論を持ってこようというのであれば、「頭の中がアクティブ」とはどんな状態なのか、どんなことを目指すのか、どんな風に評価できるのかまでを定義しなければ、批判としては不十分であろう。でも、まあ…「頭の中がアクティブ」って教員大好きだよね……指導要領の構造的な記述と比べると雑もいいところなんだけど。

第二に、「頭の中がアクティブ」は、「主体的・対話的で深い学び」を満たしていない。あくまで「深い学び」とは、「主体的・対話的で」とセットの言葉である。つまり、「深い学び」になっているからと言って「主体的・対話的」をキャンセルすることはできない。各教科の「見方・考え方」や「思考力・判断力・表現力」に主体的であることや対話的であることが含まれていることからも、「頭の中がアクティブ」だけでは、学習指導として不十分である。だから、もっと踏み込んで大雑把にまとめてしまうのであれば、「頭の中がアクティブ」という主張は指導要領が求めている学びの質や目標よりも非常に雑で程度の低い「浅い学び」で満足していると言える*3

逆に、「主体的・対話的で深い学び」を呼び起こすような発問を教員ができるというのでれば、それはもはや「アクティブ・ラーニング」ではないと言い張る必要はないだろう。かの大村はまだって 

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

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教えることの復権 (ちくま新書)

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教員がしっかりと研究して適切な指導を自信を持ってやらなければいけないということをはっきりと言っているわけだし。でも、大村はまの授業を「一斉授業の教え込み型」とは誰もいうまいよ。

生徒におしゃべりさせる授業はダメだと言ってドヤる批判

「主体的で対話的」という部分がやはり「アクティブ・ラーニング」とわかりやすくつながる部分であるので、多くの批判が繰り返しされている部分だ。

  • 生徒同士で話し合わせて全然、深まらない
  • 生徒同士に話し合いをさせてもふざける生徒が多くてダメだ
  • 話し合わせると指示しているのに主体性というのはおかしい
  • 話し合わせるとフリーライダーが出てくる
  • 生徒同士の話し合いでは知識の習得はできない
  • 議論させると効率が悪い

などなど…

ここではいくつかの議論が錯綜してしまっているので、実は反論していくのが面倒くさい大変なので、つい反論側のほうが説得力があるように見えてしまう。

ただ、多くの場合、これも「主体的・対話的」という言葉を指導要領の定義と無関係に自分の都合の良いように歪曲して批判のための批判をしている場合が多いのです。だから、最初に戻るけど、やっぱりちゃんと読むべきものを熟読して定義と議論のスタートラインを揃えてから言ったほ

うがいいですよ*4ということです。

ここでは「対話的」について取り上げておくと、「対話的」とは別に「生徒におしゃべりさせる」ことや「授業の内容を生徒に丸投げして相談させる」ということでもない。そりゃあ、生徒に目標や見通しもなく話し合わせればおしゃべりにしかならないし、生徒に準備もなく「話し合え」なんて丸投げしたら、それはただの教員の職務怠慢である。そして、それを「対話的な授業は生徒をダメにする!なぜなら、ただのおしゃべりだからだ!」なんて批判するのは、わざわざ失敗事例を引っ張って来て批判のための批判をしているだけである。「お前のお父さんのお母さんはお前のおばあちゃんだ!」くらい意味のない強弁である。勢いはあるし内容としては正しいが、あまり意味はない。当たり前のことを大声で言ってドヤっているだけである。

そもそも、「対話的」ということが「おしゃべり」や「議論」しか捉えられていないのは、

子供同士の協働,教職員や地域の人との対話先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ,自己の考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているかという視点。

幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)(中教審第197号):文部科学省 下強調下線は引用者)

という中教審の答申を読み落としている。つまり、「対話的」というのは「おしゃべり」という話を超えて、「先哲」つまりは書物などとの「対話」や「自己」を変容させる「自己との対話」という層があると示されているのに、意図的なのか読んでいないのかは知らないが、「おしゃべり」のことしか取り上げず(しかも、「おしゃべり」は失敗例を針小棒大に言っているだけ)、批判していないのは、批判としては不十分だろう。 

国語科における対話型学びの授業をつくる

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対話・批評・活用の力を育てる国語の授業―PISA型読解力を超えて

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このあたりを読めば、とっくに先行研究でも「他人との対話」「素材との対話」「自己との対話」というような形で「対話」を捉えて、構造的に授業を作らなければいけないという観点からの実践はいくらでもある。そういう「対話」を重視した先行研究の緻密さからすれば、「おしゃべりになるから対話的なんてダメだ!」というのは雑すぎるでしょう?

そろそろ飽きたので…

だいたい、アクティブ・ラーニングの大切なことは京都大学の溝上慎一先生が書いている。

溝上慎一の教育論

これを読めば、現場の教員が思いつくようなアホな批判に対してはだいたい反論してあると思う。だから、積極的に宣伝していくことにします(笑)溝上慎一先生とお話したことはないので一方的な勘違いかもしれないけど(笑)

まあ……文字面で批判ばっかりしていると、何も授業が進歩しないで終わりまっせ。

 【参考記事】

www.s-locarno.com

そろそろ更新しないとダメですね。夏休み明けにでも更新を目指そうか。 

www.s-locarno.com

文字面のアクティブラーニング議論だとこういうわけのわからないことが言い出される。 

www.s-locarno.com

自分の言いたいことはもう言ってましたね、うん。 

www.s-locarno.com

ちなみに、アクティブラーニングとラーニングピラミッドを結びつけるのは悪手です。

*1:本当は一理もないものもあるけど

*2:「見方・考え方」「資質・能力」についても定義は一応している。もちろん、その定義が妥当かどうかは議論があっていいところだ。

*3:こういう書き方をするのは、比較的、自分がこの手の議論が嫌いだからですよ。バイアス。

*4:バイアス(笑)

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