ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

なぜ、子どもに委ねられないのだろうか

Freedom

気分的には昨日の続きです。

昨日の記事を書いていて感じたのだけど、どうして「教員が教えなければ集団は育たない」だとか「アクティブラーニングよりもアクティブティーティングを」だとかいう意見が根深いのだろうか。

自分にとってはよく分からない感覚ではありますが、その背景をダラダラと書きなぐってみよう。

常套句としての「ゆとり教育の失敗」

アクティブラーニングはダメだという人は多くの場合、「ゆとり教育を失敗したのにアクティブラーニングとはけしからん」という意見が多い。まあ、「ゆとり教育」をめぐって散々学校が厳しい目に晒されてきたということはあるので、そのルサンチマンは根深いのかもしれない。

そもそも「ゆとり教育」は失敗しているか

ただ、「ゆとり教育」は失敗だったという意見があまりに自明で疑いようのないものであると述べられているけど、そもそも、「ゆとり教育」が失敗だったという根拠は自明ではない。いわゆるPISAショックについても、別に「ゆとり教育」の影響というよりも、問われている学力観の違いが大きかったなどの要因があるし、そもそも、アメリカやドイツなどの先進国と比較して著しく劣っているわけではなかった。ま、散々、議論されつくされた話なのでここで書いても仕方ない。 

続・教育言説をどう読むか―教育を語ることばから教育を問いなおす

続・教育言説をどう読むか―教育を語ることばから教育を問いなおす

 

散々、議論されているよ!そしてPISA2015の結果が出たところでも読解力低下だとかも議論されています。

信州大学 比較教育学研究室: 研究紹介: PISA2015の結果と考察

だから、「ゆとり教育は失敗だった」ということ自体を根拠として「アクティブラーニング」はダメだと論じるのは無理がある。なんとなく見聞きした範囲では正しそうというのが厄介である。全然、議論としては意味がないのに、説得力があるから正しそうに見える。でも、そんな薄弱な根拠で教育って議論してよいの…?

「ゆとり」からの転換か?

厄介な話として2016年の馳文部科学大臣のメッセージを受けて、世の中が「脱ゆとり」という言葉を使いだしたことだろう。

教育の強靭(じん)化に向けて(文部科学大臣メッセージ)について(平成28年5月10日):文部科学省

www.meijitosho.co.jp

https://mainichi.jp/articles/20160824/ddm/004/070/059000c

そもそも、このメッセージを「文科省の脱ゆとり宣言だ」ということが無茶がある。ただ、まあ、「ゆとり」かどうかという議論に戻らないといっているのも事実なので、「脱ゆとり宣言」だとして受け入れるとしても、そこから「脱ゆとり宣言しているのにアクティブラーニングなんてやったらゆとりの二の舞いだ」という意見はやっぱり無理筋である。

そもそも「生きる力」という理念は次期学習指導要領でも引き継がれている内容であるし、「詰め込み」か「ゆとり」かの二項対立の議論をせず、内容の削減を行わずに基礎・基本の定着を図り、「主体的・対話的で深い学び」の実現のためのアクティブ・ラーニングの視点と言われているのだから、「脱ゆとり」を指示しながらアクティブ・ラーニングを拒絶するというのは、理屈に合わない。

「脱ゆとり」をダシにして一斉授業、つまりは今までの授業から何も変えないで済ませようとしているだけである。今までの授業が優れていて、チョークアンドトークで問題ない……というのは、あまりに教員本位の教育観ではないだろうか。

社会の変化と求められる学力の変化を考えれば

「ゆとり教育」の二の舞いになるのでアクティブ・ラーニングは望ましくないという意見は、他者に「ゆとり教育の総括をせよ」だとか「ゆとりの失敗を直視せよ」だとか強弁する割には、「ゆとり教育」の背景や意義やそこで生まれた優れた実践について全く議論が足りていない。

さらに言えば、「脱ゆとり」宣言だと喧騒された上述の文科相のメッセージも、「詰め込み」か「ゆとり」かの二項対立の議論に戻ることなく、これからの社会に何が必要かという観点から議論しなければいけないと述べているものであるのに、その点についても認識が甘い。

このあたりの議論は、やっぱり毎度おなじみの溝上慎一先生のサイトが非常にわかりやすい。

smizok.net

大まじめに、社会の変化と新しい教育観、教育方法との間にあるものがわからないという者は決して少なくない。彼らは、社会の変化はわかるが、それで「なぜ資質・能力だ?」「なぜアクティブ・ラーニングだ?」とたくさんクエスチョンを飛ばしているのである。筆者のこれに対する回答は、学校から仕事・社会へのトランジション課題における問題解決のためである。つまり、学校教育(高校や大学など)を終えた後の出口がかつてとは異なるかたちで深刻に問題化しているのであって、その問題から学校の社会的機能が見直されているのである。

「学校の社会的機能が見直されている」という部分に対して、アクティブラーニングをゆとり教育と結びつけて否定する意見は答えていないことは重大な問題である。

なぜ教員はアクティブラーニングにアレルギー反応?

小難しい話に飽きたので、ここからは思いつき(笑)

「アクティブラーニングよりアクティブティーチングだ!」と言う人たちがどれだけ雑な議論の仕方をしているかは上述のように少し考えればわかるのに、どうしてここまで「理屈に合わない」ような主張を押し通してまで、アクティブラーニングを否定しようとする人が多いのであろうか。

ま、一方では教育産業が「詰め込み方式」であったほうが、産業として都合が良いということも大きいのだろうとは思うけど*1、基本的には利潤の追求とは関係ない学校の教員がチョークアンドトークの一斉授業にこだわる理由は何だろうか。

自分これまでの経験を手放せない

まあ、自分が受けてきた教育がチョークアンドトークだから、自分が経験したことがないものは挑戦しにくいというのは事実だろうし、多忙感の強い教育現場では今までの教材研究を手放して、ゼロからアクティブラーニング型の授業を考えることが難しいということもあるかもしれない。

どちらも共通して言えることは、自分の経験というものを非常に重視しているということである。学習者として教員に教えられるということが授業であるという経験、これまで教員として「そこそこ」問題なく授業をこなせてきた経験、それらが成功体験として強く教員を縛っているのではないか。

もちろん、これまでの「知識伝達型」でそれなりに社会との接続がうまく行っていた時期の社会であれば問題はなかったかもしれないが、現代はいうまでもなく、それではうまく行かないというのは各所で指摘されているとおりだ。

だから、やはり教員がこれまでの経験を手放さなければいけない時期にある。それこそ、アクティブラーニングに「這いずり回る経験主義」と非難を浴びせるのに、自らの経験は重視するのは矛盾していよう。

子どもを信頼しないことと教えることの能力の過信

アクティブラーニングなんかをやらせていたら、生徒の持っている知識以上のことしか出てこないという意見が根深い。もちろん、この主張の仕方も非常に雑だ。基礎・基本の確実な定着だけではなく、さらにその先も…という観点からのアクティブラーニングなので、「知識」とは何かを議論しなければいけないはずなんだけど……。

まあ、それはともかくとして、どうしても子どもたちに「委ねる」(丸投げではない)ことによって、教員がチョークアンドトークで教えるよりも劣ると決めつけるのだろうか。もちろん、伝統的な講義型で教えたほうがよいものは、それで教えれば良い。それは、誰も否定しないところである。しかし、すべてを講義型でやったほうが優れているという意見は成り立たない。

また、教えたこと以上のことができない、子どもは教員の知識を超えられないという学力観で授業をしていて、果たして社会との接続という面で、授業はその責任を果たしているかというか怪しい。もし、それを「きちんと教員が指導すればもっと効率よく授業できるのだ」というのであれば、十分に根拠を示して論じるべきだろう。例えば、能力は簡単に転移しないということはよく言われることである。転移していかない、教室限定の知識を効率よく教えたところで意味があるのか。

教えることが好きすぎる(笑)

ま、散々、上で文句を言ってきたけど、現場レベルの教員について言えば、この点が大きいんじゃないかなぁと思う。そもそもそれほどやる気がないから、準備や評価において非常に手間のかかるアクティブラーニングをやりたくないという人もいrゲフンゲフン。

アクティブラーニング型の授業をやると、結局、今まで教員が専有してきたものをあっさりと生徒に手放さなければいけない。例えば、古典をやるときも、訓詁注釈で偉そうに講釈を垂れる授業では許されないし、むしろ、解釈であればまとめてプリントにして渡したり資料へのアクセスの方法を教えたりして、「解釈を教える」ことを手放さなければ、アクティブラーニングやっている暇はないだろう。

でも、そうなると、せっかく自分が教員として勉強してきたことを生徒に教えることができなくて寂しい(笑)

しかしね、そうやって「何も知らない生徒に教えてやる快感」というのは自重しなければいけないのだろう。ただ、知らない知識を得るだけ、ということであれば、教員に頼らず、自分でも容易に素早くアクセスできる時代になっている。そんな時代に、教員の快感のために、「教えること」を手放せないというのは、教員のエゴでしかない。

生徒に多くを委ねるべきではないだろうか。生徒は有能だという観点を信じてもいいのではないか。 

資質・能力を最大限に引き出す! 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編

資質・能力を最大限に引き出す! 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編

 

自分は『学び合い』はやらないけど、考え方は同じである。形態は違っても『学び合い』をやっているとも言える。

まあ……もう少し、教科教育が手放せない人間ですけどね。

どうすれば生徒に委ねられるのだろうか

たぶん、「生徒は有能だ」と思っていても、授業を生徒に委ねられない人は多いように思う。たぶん、熱心に教科について勉強すればするほど、その深さについて思うところがあるから、授業で自分がやりたいことが増えてしまって、授業を委ねられなくなってしまうのではないか。

まあ…生徒に授業を委ねるためには、どれだけのことをやらなければいけないかといことを見通すだけの勉強が教員には必要だ。

でも、勉強すればするだけ、教えたくなってしまう……厄介な問題ですね(笑)

参考記事

www.s-locarno.com

www.s-locarno.com

PISAやゆとり教育に関する過去記事です。PISAなどの学力観を知ることは重要でしょう。 

www.s-locarno.com

委ねるということについて、最近、考えるようになったのは「山月記」の授業の影響は大きいのです。 

www.s-locarno.com

 「発問」は教員のものだという発想すら転換できるのです。

追記

明日から手抜きになります。ちょっと忙しい。

*1:根拠はない。

Copyright © 2023 ならずものになろう All rights reserved.