ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

紋切型の指導案

本校でももうすぐ教育実習が始まります。

教育実習生と単元をどうやって作っていこうかと相談しています。

自分が教育実習生を受け持たないときであっても、実習生の指導案は気づくと机の上にたくさん置かれます。そんなこともあって、この時期は指導案を多く見る時期なのです。

生徒が無能でないと困る?

そういった実習生の指導案を眺めていると、たいていの場合、なんだかよく分からないけど「生徒は〇〇をすることができない」だとか「〇〇が不得意である」だとかけちょんけちょんに書かれている。その代わり、どのクラスもみんな仲良く元気が良い(笑)。

まあ、そうなってしまう理由もようわかる。「生徒ができないからできるようにする」というストーリーがないと授業をする意味がないからである(笑)。自分が授業をしたから生徒ができるようになるというサクセスストーリーをそこに描いておかないと格好がつかないらしい。

実習生が必ず指導案を書くのは「研究授業」で実習の成果として「こんな授業を作り、こういう風に生徒を指導できるようになりました」ということを晴れて示すためだ。教員は指導案をみて「だいたい、こんなことをやろうとしているのね」というのを理解して、あとから偉そうに講釈を垂れるのです。

まあ、そういうやり取りをすることになるから「生徒ができないことができるようになりました」というお約束に沿って指導案を書くらしい。

研究授業は実習生のためか

こういうお約束に沿うように単元を進めて、評価してもらうというのは、実習生の勉強としては、まあ、必要なことなのかもしれない。でも、授業を受けている生徒の方からすればどうだ?無能のレッテルと貼られた上に、実習生にとって都合の良いストーリーに沿って数時間授業をされてしまう。甚だ迷惑なものである。

まったく生徒が置き去りです。そもそも、単元を立てるということが生徒の実態に即して年間計画との間でやっていくことなのに、2週間なり3週間なりの短い時間に押し込んで実習生に花を持たせて終了させることばかり優先するから、ぜんぜん、実態にも計画にも関係のない指導案が出てくるように思う。

時間が足りないからある程度はしかない。でもさ、安易に生徒が〇〇ができないとか生徒は〇〇に対して意欲がないだとか書面に書かれるのは面白くないし、毎年、生徒の実態が似ているような文面になるのも(場合によっても去年と一字一句、句読点まで同じ指導案もあったが(笑))、実習生と指導教員の怠慢に思える。

まず、生徒の実態と評価の観点を明瞭に…

生徒の実態をできるだけ忠実に述べることは、授業者が単元についての学力の観点を決めて、その軸に沿ってつぶさに評価を行っていくということだ。生徒の実態が雑にしか書けないのは、根本的に「評価」という授業プロセスを放棄している、片手落ちの実習になっている。

また、「その授業でどんな力を伸ばせるか、伸ばしたいのか」ということを明確にするためには、評価の観点を指導要領などの評価規準から考えなければいけないし、その評価規準から評価の基準を具体化することも教員が生徒の具体像を知っており、様々な活動のパターンを知らないとできないことだ。

結局、「生徒が〇〇でできないから教えてやる」という書き方が、もう授業の立て方としてアウトなんだろうなぁ。もっとちゃんと生徒を知り、生徒がどんな活動ができ、その活動からはどんな力を伸ばせるのかを素材と突き合わせて考えなければいけない。

紋切型の指導案を書いて、文字数が多いからと言ってよろこんでいたら話にならないのである。

実習生は悪くないよ!

授業を散々したのに、できが悪いのは生徒のせい?

実習生が授業の筋が悪いのは誰のせい?指導教諭の指導が足りてないのが原因ではないのか。

なるほど、教員はできないのは相手が悪いといいたい人が多いらしい。

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