ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

続けて繰り返すことで

Fetzel

実習生の授業も折り返し。2週間しかないと何もできない(笑)

実習生が悪戦苦闘している間に自分が見ているのは子どもの様子。実習生が実際、どんな授業をするかは打ち合わせと指導案で目星はつく。

だからこそ、普段は内側にいがちな自分の指導しているクラスを外側から眺める。

あまり普段とやっていることは……

実習生が「やらせている活動」も別に普段の自分の授業と大きく大差があるわけではない。だから、授業中の自分の振る舞いもただプラプラと歩いて生徒を覗いているだけなんだが(笑)。

生徒の方も自分が暇そうに歩いているのに誰も気を留めない(笑)。まあ、毎度のことである。

実習生が一生懸命になって机間巡視しているのに対して、本当に雑だなぁと我ながら思う。実習生が何とかして生徒に「話合わせよう」とするのは、よく頑張っているなぁと思わないことはない。

生徒の方としても、実習生のやり方に思うところはあるのだろうけど、まあ、後ろに自分がいるし(笑)、付き合ってあげようとする姿勢は微笑ましい。

さて、ここから本題

かなり嫌みな書き方をしたけど、この授業の様子を見ていて思うことは二つある。

自然に委ねるには工夫がいる

最近は、すっかり雑に生徒に投げている自分の授業だけど、それでも「何をするか」「どうすれば力が付くか」「何を伝えるか」ということについて何度も考えてはいる。考えたらあとは丸投げするんだけど(笑)。

生徒の実力や興味関心、そしてキャリアのイメージなどを総合して、「この角度から投げれば、まあいいか」という信頼と手抜きで授業をしているわけだけど、奏功してそれなりに自分たちで迷わずに進んでくれる。

もちろん、こういう生徒の情報から何をするかを考えることは実習生には難しいのだけど、それでももう少し生徒のことを知ろうと努力して、生徒にとって切実な課題を作れれば良いなあとは思う。時間はないっていっても、授業見学や放課後に話すチャンスはあるのだからね。

もちろん、自分だって果たしてちゃんと全員に切実感のある課題を作れているかは怪しい。なれ合っているだけで、切実感がなくてもやれてしまったりね。

偽りの習慣

しかし、逆に言えば、こうやって自分が色々な手を尽くしているから生徒は付き合ってくれているだけであって、自分から学びに向かおうとする力は強くないのかもしれない。

課題が悪いと進み方が分からなくなったり、自分にとって面白くなければ放棄したりと、目の前にあるものから自力で問いを生み出して、とことん追究するだけの知的な体力はないのかもしれない。

こうやって授業者が変わり、課題の質が変わった時に、自力で何もできなくなってしまうのは、自分が自分の手のひらで踊らせることに満足している傲慢さの証拠かもしれない。

教室にはまりすぎていないだろうか

授業を作ることは楽しい。授業を作るのは大変だ。びっくりするくらい勉強しないとできないことは多い。まあ、大村はまのイメージは強いよね。

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

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でも、目的を見失って授業で教えることに夢中になって、自分の説明で分かったという生徒を見ていたら楽しくてしょうがないかもしれないが、なんでもかんでも自分の楽しみのために教えていたら、結果的に、自力で考えない生徒の出来上がりである。

こうして、外側に自分がいて、生徒の活動が鈍くなる様子をみると、自分が生徒に構いすぎなのだと思うのです。もっと投げてしまおう。

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