ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

科目だけでは行き詰る

STOP

採点の祭典。

自分の考査の問題は初見の文章とちょっとした小論文を必ず課しています。

まあ、時間が50分しかないので欲張りすぎだよなあと思いながらも、呼吸するくらい一つのテーマについてしっかりと考えてもらうことも大切だよなと思い、スピード感がないと解けない分量を攻めています。

思えば、一年生の最初は30点前半の平均点で焦ったものですが、現在はきちんと50点台付近になってきたので、それなりに力はついているのかな?と思うのです。

が、やはり毎回感じていることが、ここに来て強く感じるようになってきました。

それでもスピードが身につかない

やっぱり一番気になることとしてはスピードがなかなか身につかないことです。もちろん、早く正確に国語の問題を解かないといけないなんてことは、もう学校の中だけのフィクションもいいところなので、点数自体にはあまりこだわってはいない(生徒はこだわるだろうけど)のだけど、ただ、「時間をかければいいものになる」という訳でないし、「精読しかできない」というのも読み方としてはちょっと堅苦しいかなと思う。

色々な読み方ができて欲しいと思う。もちろん、それを測るのは「考査」という場面に限定された話ではないのだけれども。

「時間をかければいいものになる」のはある意味で正解だ。しかし、時間をかけたところでどうにもならないことも多い。むしろ、時間が限られている中で、判断をミスすることなく答えなければいけないことは多い。

スピードをあげるためには何が必要だろうかと考えたときに、やはり大きな要素としては、どれだけ自分の中に「用意」があるかということなんだろうと思う。抽象的というか皮膚感覚的なものいいになるのだけど、「用意」言い換えるなら状況や文脈を想定しておくことや幅広く知識を持っていることなどが必要なはずだ。

少なくとも、考査という場面ではテーマは限られているし、十分にそのテーマについては授業中に可能性を検討してきているはずなのである。ただ、その取り組んできたことが自分の血肉として身についていないのかもしれない。十分にテーマに馴染んでいないから、未知の状況で、新しい文脈で学んできたことを結び付けられないのかもしれない。

当然ながら、知識を新しい文脈で使えるというのは相当に高度なことだ。授業で十分に色々なことをやっていなければできないので、自分の授業の組み立てとして生徒に授業で学んでいることを「活用」する文脈を置けていないのかもしれない。

www.s-locarno.com

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授業の中での「活用」についてかなりこだわっているのは、このあたりの生徒のやっていることとできることの差が気になるからなんだよなぁ…。

「社会」と「実現可能性」と

生徒にテストの中でちょっとした小論文(予告先発のことが多い)を書いてもらうのだけど、その内容がなかなか高校生の話としては幼いことが気になる。

もちろん、テストの中で無理矢理に書かせていることであるので、そんなに深い内容がかけるとは思っていない。

でも、色々なテーマの問題を投げかけたときに、教科書の本文をつぎはぎして自分の意見のように述べる答案がなくならないことや抽象的というよりも薄っぺらいワイドショーのコメンテーターのようなコメントしか書けないことが非常に気になる。

聞きたいことは薄っぺらい理想論ではなく、自分が一体なにを問題だと思っているのかという切実さなのだけど……まあ、なかなかうまく伝えられません。授業の中ではそれなりに書けるようになってきているのだけど、これもまた、ちょっと角度が変わるだけで手持ちのカードが少ないのか、なかなか切実さのあることが出てこないものです。

問い方……問い方……うーん。

まあ、根本的に考査で問うのが無理なのかもしれない。でもなぁ……自分の生きている社会に対して、ちょっとした引っかかりをもって生きていて欲しいなぁ。

一科目の授業だけでは無理かもね

色々なものに引っかかりをもって生きるということ。

一日の大半を座って聞いているだけで過ごしていては難しいのかもしれない。

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