ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

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【書評】読んで理解することの難しさ

Reading

寝込みながらamazonのprime readingの本を読んでいます。

三学期に再びリーディング・ワークショップを行うために、ワークショップに関する本や読書や理解することに関する本を読むようにしています。

わかったつもり?読解力がつかない本当の原因? (光文社新書)

わかったつもり?読解力がつかない本当の原因? (光文社新書)

 

本日はこの本をたまたまprime readingで無料で読めたので読んでみたのですが、なかなか面白かったので、紹介しておきます。

「わかったつもり」の厄介さ

本書は人間の文章理解についての心理学的な説明をわかりやすく噛み砕いて行っている本である。

筆者の主張は非常にシンプルだ。正しく「わかる」ために「わかったつもり」から抜け出そうということに尽きる。

 

自ら「よりよく」読みたいと考え、またそのような人たちに対して文章理解の向上を援助しようと考えるなら、「わかったつもり」という状態の存在をはっきりと意識することと、それからの脱出をいかに図るかをはっきり認識しておかなければならないのです。

つまり、こういうことだ。

文章をより深く理解しようと思ったときに、「わかったつもり」になってしまうとそれ以上深く「わかった」ことを目指すことができなくなりやすい。しかも「わかったつもり」は必ずしも正しく「わかった」とは言えないことも多いのである。しかし、一度、「わかったつもり」になってしまうと、その安定状態から抜け出せなくなってしまうのである。

 浅いわかり方から抜け出すことが困難なのは、その状態が「わからない」からではなくて、「わかった」状態だからなのです。 

このことをわからせるために、本書では小学校低学年向けの文章で、どれだけ我々がいろいろなことを「わかったつもり」になって読んでいないのかということを示している。

ある意味で、国語の授業の教材研究でやっていることをネタバレされているような印象を受けつつ、また、なるほど、「読む」ということが意外と「読んでいない」で成立してしまっているのだと理解できるものである。

本書は、このような「わかったつもり」が出てきてしまう主な理由として、本書では文章の構成に関することと読み手のスキーマに由来することを大きな柱として挙げています。何が原因にあるのかということを理解した上で、それぞれの原因にどのようにこの「わかったつもり」に対応していくのか、というのが本書の注目点です。

「わかったつもり」と国語の授業

本書の「わかったつもり」に関するスキーマの働きを読んだときに思ったのが、国語の授業における生徒の「初発の感想」が紋切り型で出てくることだ。個人的に、生徒の感想が判を押したように同じことばかり書かれてくる「手抜き」には、何度もイライラさせられている。

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紋切り型の感想とは、見方を少し変えれば、「学校のというスキーマにあった解釈」を無批判に垂れ流すことに近い。だから、例えば上のように文学的文章を読むと決まって「筆者の意図がわかりました」だとか「登場人物に共感しました」だとか、そういう「別に本文を読まないでも書けるだろおおおおお!!!」と思わず叫びたくなるような感想を平気で書いてくる生徒たちが多いのも、そういうスキーマで解釈しろとしつけられてきたからなんですよね…はい。

上で「わかったつもり」の解釈をしていることを示す例として本書が挙げているものについて、「国語の教材研究をしているようだ」と評したけど、国語の一般的な一斉講義型の授業というものは、「揺さぶり」という言葉に象徴されるように、いかにして生徒のスキーマが陥る単純な読み方を変化させられるか、しかもそれがあたかも生徒自身の読みであるかのように見せていくのが、うまい授業であるように言われていたような感覚はある。

まさに表現の一つひとつを読み直しさせて、どういう意味だろうと問い直させ、そして他の表現と比較させということは、国語の従来の授業で散々にやっていたことである。

初発の感想を集めて、その初発の感想から足りないところを補うように解説をしてみたりだとか、生徒の発言を教員が引き取って板書で整理するだとか、すべて生徒の「足りていないこと」や「読み飛ばしていること」を読み直させるような授業である。

なるほど、本書のいうように「わかったつもり」が「わかる」ために障害になるのであれば、「わかったつもり」を拾い上げて、それに教員が「揺さぶり」をかけるのは、「わかったつもり」を自覚させ、改善させていくにはいいのかもしれない。

しかし、自分にはそういう授業にどれだけ意味があるのか、よく分からない。

「揺さぶり」をかけることによって、読み方が解釈されなおされて、より「深い読み」というものが成立するのかもしれない。しかし、そうして「深い読み」がその文章でできたことにどれだけの意味があるだろう?

自分が一人で読書するときに「揺さぶり」をかけてくれる先生はいない。自分自身で自分自身の「わかったつもり」から抜け出さなければいけないのだけど、授業で揺さぶられるだけの生徒がはたして自分自身の力で「わかったつもり」から抜け出すことができるのだろうか。

ワークショップ型の授業のヒントがいっぱい

本書が想定している「国語」は従来型の授業であるような印象を受けるが、しかし、本書で説明されている「理解の仕方」の話や「わかったつもりの生まれ方」の話は、むしろワークショップ型の授業をやろうとする人にいろいろなヒントを示してくれる本であるような気がする。

例えば、ワークショップ型の授業の個人的な必読書としては 

「学びの責任」は誰にあるのか: 「責任の移行モデル」で授業が変わる

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  • 作者: ダグラスフィッシャー,ナンシーフレイ,Douglas B. Fisher,Nancy E. Frey,吉田新一郎
  • 出版社/メーカー: 新評論
  • 発売日: 2017/11/17
  • メディア: 単行本
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増補版「読む力」はこうしてつける

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理解するってどういうこと?: 「わかる」ための方法と「わかる」ことで得られる宝物

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このあたりを強くおすすめするのですが、なかなか理解が難しい。というのも、これらの本は「生徒がちゃんと理解する力をつけるならワークショップ型が必然だよねー」というノリが前提にあるので、そもそもワークショップ型に慣れていない人が読むには、「え、なんでそうなるの!?」という部分が抜け落ちているように見えるかもしれない。

これらの本を読み出す前に、本書を読むと、人間の「わかった」という理解の仕方のいい加減さ、そして複雑さが見えてくるので、「なるほど、確かに人間のわかり方からすれば、この方法はいいかもしれない」という納得につながるストーリーが見える気がする。

上述の通り、自分はどうも教員が「揺さぶり」をかけるような授業に懐疑的だ。結局、一斉授業では圧倒的に読む回数が少ない、理解しようとする回数が少ない、わかったことを検証する回数が少ない。だからこそ、教員が揺さぶるよりも、よほど効果的でなおかつ多くの回数、思考でき、生徒自身が学び方や分かり方を理解できるのがワークショップ型の授業なのだと思い、魅力を感じる。

授業観を変えることは難しい。でも、いろいろなところに、授業観を変えるヒントがあるものだなぁと思う。

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