ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

古典と国語科の中の古典の違いを…

Masterpieces

中高の国語の教員は、文学部の修士課程を修めた人間でなければダメだと言われたら、どう思うだろうか。 そして教員養成課程の教育技術は役に立たないと言われたらどう思うだろうか。

国語科への誤解から

恐るべきことに、冒頭のコメントは古典の研究者が一般に販売されている書籍の中での発言である。

国語教員に関して言うなら、優れた教員には教育技術より、人文系諸学の豊かな知識こそが必要であるはずである。さらに言うなら、そうした人文系諸学の修士課程を修めた人材こそが、これからの中等教育の担い手とならなければならない。教職大学院など愚の骨頂である。(多田一臣「国語教育の危機」P.31より)

おかしいぞ! 国語教科書: 古すぎる万葉集の読み方

おかしいぞ! 国語教科書: 古すぎる万葉集の読み方

 

議論する気も起らないくらいに偏見と傲慢に満ちている意見なので、はっきりと問題にもならない的外れな意見だというだけで、ここでの議論は止めておきますが、残念ながら国語の教員の中にも「国語」ではなく「人文学の専門知識の真似事」を教えることが高校の教育だと思っている人がいるのもまた事実です。

そのような高校の教員からすれば、自分の守備範囲のことを知らないような教員のことを糾弾する上のようなコメントに膝を打って喜ぶことでしょう、「我が意を得たり」と。

しかし、そのような発言はやはり「国語科教育」が何に対して責任を持たなければいけないのかという、教科そのものに対する自問自答をしていない怠慢だと感じる。他所の人が「国語科」のことを良く分からないので発言するのとは異なり、生徒に対して「学力」を保証することに責任のある教員が、似非文学や似非社会学のようなことを垂れ流すような授業は許容できない。

難しいことに、『おかしいぞ! 国語教科書: 古すぎる万葉集の読み方』でも指摘されるように、最新の研究成果が国語科教育の教科書などに反映されてこないことに親学問からすればもどかしさや問題意識があることは当然であるが、それを鵜呑みにして現場の教員が安易に聞きかじったことを垂れ流すのでは困るのである。

古典と国語科を一例に考えると

国語の教員で「古典」を大学時代に勉強したという教員は比較的多い。少なくとも自分のように日本語学を好んでやって、教員になるという人よりは多いはず。そうなると、やはり国語の授業での古典と学問としての古典の差の大きさは理解されるところだが、その差を自覚して「何を目的にするのか」ということには、意識していかないとなかなかつながっていかない。そういう意識を持つきっかけは何かは自分には分からないが、「何を目的にするのか」を問う必要性はあると思う。

その点について、国語教育として、自分が支持したいのは西尾実の考え方である。『西尾実国語教育全集〈第9巻〉古典の研究と教育 (1976年)』や「古典教育の意義」(『国文学』1961・1)などを参照すると分かるが、西尾実の説く「古典教育」の内容は、一言で大雑把にまとめるのであれば、「文化の創造のための出発点としての古典」であり、「現代の言語生活や言語感覚を向上するための古典」という考え方である*1

この考え方は学習指導要領にも引き継がれている側面もあり、「伝統的な言語文化」という形で小学校・中学校・高校と繰り返し古典の素材が取り上げられることの意義として「文化の創造のため」ということは(詳細を詰めるのは置いておくとしても)、分かりやすい観点であるし、「国語の特質」という面でも、現代語と古典の差異を自覚させるような授業を通して、「言語感覚を養う」ための古典という意義は見出しやすい。

極端なことを言えば、古典を必ずしも原典、古文で読む必要はないのであって、口語訳や古典の解説書を読むことで、古典を指導する可能性にも開かれている。もちろん、原典や原文を全く読まなくていいということではないが、古典の学び方の多様さは準備されているのである。

そのような多様な文脈を想定している国語科の中の古典教育に対して、さすがに冒頭の例の修士を修める云々は極端にしても、「これを指導しないのは不十分だ」とか「こんな解釈は間違っている」とか言われるだけでは、国語科と古典の専門家たちの溝を広げるばかりである。

例えば、提案として現場の教員が聞き入れやすいものとしては、筑波大学の石塚修先生の論考である「国語科教育からみた和歌指導のゆくえ」(『和歌文学研究 』(112) 2-8 2016・6)が個人的にはとても共感できるのです。

抜粋が難しいのですが、特に印象的な部分を引用すると

和歌はこれまでの古文の授業で「読む」ものにとどまっていたために、学習者が離れていってしまった。それを「詠む」ことに転換するとどうなるか。(中略)ただし、その指導を実現させるには、和歌が持っていた共同体としての教養という機能が消失した現代にあって、いまさら和歌を「詠める」能力を復権させることが、どれほどの社会的な意義を持つのかという批判への解答を用意しなくてはなるまい。(中略)歌の贈答という和歌ならではの文学的な営為を現代の生徒たちに理解させることは、まさに言葉の持つ「伝え合う*2力」に気づかせることにもつながるはずである。(P.7)

少し無理して引用しているので、上の引用だともしかすると誤解を招くかもしれないので、気になるのであれば原典を見て欲しいのだが、この意見は古典と教育の両方に携わっているからこそ出てくる説得力のある論考だと感じる。

もちろん、細かいことを言えば、「授業時数が簡単には確保できない」だとか「古典で行う意味があるのか」だとか、さらに詰めなければいけない議論はあるが、現実的な落としどころ、現場の教員として理解して、自分の実践の足掛かりにするにはこのような論考をきちんと踏まえたいと思うのです。

親学問の真似事ではなく

いつもしみじみと思うことであるけど、決して教育現場でやっていることは親学問の真似事ではいけないのだと思っている。

もちろん、自分が悪名高い教員養成課程の出身で古典も文学も社会学も何にしても中途半端にしか理解していないということからくる酸っぱい葡萄理論である面は否定しないけど、それでも子どもに保証するべき力は、子どもたちの発達段階に合わせて、出口とその先を見据えたものでなければならないと思うわけです。子どもの発達段階と社会とのギャップを見定めて、そのギャップを埋めるような素材の可能性を引き出すことこそ教員の専門知ではないかと思うのです。

*1:先に引用した多田氏の論考の中で西尾実・増田勝実編『新訂万葉古今新古今』を高く評価しているのだが、西尾実のこのような古典教育への視座は理解しなかったのか、それともご存じなかったのか分からないが、どのように考えるかは知りたいところである。

*2:「伝え合う」は国語の学習指導要領の目標にも掲げられるように、国語科教育の柱の一つである。

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