ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

日本国語教育学会全国大会感想編その1

本当は今日まで大会なんだよな……。お仕事のおかげていけませんでした。誰か、どんなことがあったかを教えてください。

そんな愚痴はともかく、昨日の大会の感想を少しずつ書いていこうかと思う。調べないでアホなことをいうかもしれないのですが、その辺りはご勘弁を…。

調べるのはもう少し仕事が落ち着いたらきちんとやりますから…。

 アクティブ・ラーニングの影響がちらほらと…

日本国語教育学会は、学会としては「アクティブ・ラーニング」を看板に掲げることはないのだが、それでも大会の副主題に「主体的・協働的」という語句が入っているのは、それらは単元学習の前提かもしれないが、アクティブ・ラーニングの影響を否定はしがたいところだろう。

ちょうど、先月の下旬に中教審の教育課程企画特別部会で「学習指導要領改訂の方向性(案)」も示されて、いよいよ教科の大枠も見えてきている時期だけに、「主体的・協働的」という言葉は、各所で繰り返し聞かれていた。

また、その一方でこの特別部会で示された資料では、「アクティブ・ラーニング」という言葉が()の中に格下げされて、その代わりの文句として「主体的」「対話的」「深い」という三つの学びの観点が示されている。

「主体的」「対話的」という点については、今回の大会の副主題とも合致し、また、活動としてもイメージしやすいので、今回の大会の実践報告でも盛んに言われていたように思う。

しかし、一方で、「深い学び」については、特別部会の議論のとりまとめにもあるように「わかりにくい」ものである。

「主体的な学び」「対話的な学び」については、その趣旨が理解しやすく改善が図りやすいのに対して、「深い学び」についてはイメージがつかみにくいとの指摘もある。一方で、アクティブ・ラーニングの視点については、深まりを欠くと表面的な活動に陥ってしまうといった失敗事例も報告されており、「深い学び」の視点は極めて重要である。

ここでの指摘にあるように、「表面的な活動」に陥りやすい「活動中心」型の授業が乱造されやすいだけに、「深い学び」については、教員のほうが自覚的でなければならない。一応、「深い学び」は「見方・考え方」にポイントがあるといわれ、その「見方・考え方」とは「各教科等を学ぶ本質的な意義の中核をなすものであり、教科等の教育と社会をつなぐもの」と、かなり子どもの「生活」を志向するものであるという印象はある。

そう考えると、この学会が担ってきた「単元学習」は「子どもが主体」となって「言語生活をどうしていくのか」ということを考えてきただけはあり、かなり、参考になる実践はあるだろう。

しかし、そんな状況であるのだが、困ったことに、ここ数か月で「アクティブ・ラーニング」という名前の付く本が一気に増えてしまったために、そちらに目が奪われやすい。

また、そういう本でイメージを持っていくことも重要なことでもあるのだが、国語科に限っても相当な発行数があり、購入と読書が追い付かないし、この大会に出版社が新刊として持ってきただけでもかなりの数がある。

そのため、「何が深い学び」で「何が単なる活動で終わっている」のかの判別を実践を追いかけて峻別していくことすら難しくなりつつある。

妙な二項対立を作っていませんか

この大会に参加して思うのが「ただの活動主義に陥らない」という基本中の基本を押さえるには、ちゃんと人の実践を見て検討することや、自分の実践を検証してもらうことなんだろうなぁと思う。

正直、提案授業の後にあんなに激しく四面楚歌なシンポジウムに登壇する度胸は自分にはないけど、ああやって各方面から厳しく活動の意義や単元の狙いの意図について検討がされないと、簡単に活動主義に陥るのだろう。

下手な活動主義の次に待っているのが、成績の下降とそれに対する周囲、もしかしら自分自身の猛烈な反発だろう。

指導要領の変遷を出すまでもなく、「活動か教授か」という二項対立はいつでも簡単に議論されすぎている話題だ。

「アクティブ・ラーニング」についても例にもれず、「教えないで知識が定着しない子どもを作ってどうする」だとか「アクティブ・ラーニングになる前にやることがあるだろ」だとか、かなりアレルギーな議論がされる。

bylines.news.yahoo.co.jp

ちょうど、こんな記事のタイトルのように。

この記事の結論でも言われていますが、最後に「目的」が達成できればよいだけの話で、「よい教え方」や「よい学び方」ができれば、手段の好き嫌いを議論しても仕方ないように思う。

子どもが主語になれば…

話がずれましたが、結局、子どもが主語になって考えられればいいんじゃないかと緩く思っていますが、まあ、子どもが主語ってどういうことかよくわかりません。

ただ、府川先生がシンポジウムで言っていましたが「主体的な活動」になるためには「子どもがどう思ったか」を大事にしなければ「主体的」になりえないという指摘が重要であるように思う。

よく先生方の話を聞いていると「主体的に学ばせる」という不思議な言葉が当たり前に通用していることが、本当に気を付けないと気付かない。

しかし、その一方でもちろん教室での学びである以上は、教室という文脈や年間の指導計画や教員の願いという色々な要素が「個人の願い」と照合していかないと問題があるが、個人になればなるほど教室という枠が難しくなる。

もっとだからこそ、単元学習について、よく実践を分析しないとなぁ…と思うわけです。どうして、教室という枠で個人を主体にできるのか。それについてやはり思うことは多いのです。

本当は文法教育を……

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