たまには自分の興味あることを話したっていいじゃない…。
こんな記事を見つけてしまったので、敬語と敬語教育(しいては文法教育)について書かなきゃいけないというような使命感が溢れてきたんだよ!!
細々と書き出すと面倒なことになるので、わかりやすく、あまり知られていないようなことを紹介してみることにします。
日本の敬語の性質について
日本語の敬語がどのようなものかを端的にまとめており、教科書なども参照しているのが、文化審議会から出されている『敬語の指針』である。
これを読めば、世の中のビジネス書やマナー講座で指摘されているようなことはすべて解説されているので、一挙解決なのです。
もちろん、この指針の中に書かれていることが「絶対無二」の基準であるという性格のものではない。指針の中でも書かれているように、あくまで「個別的な社会集団や分野の一つ一つを網羅的に扱うのではなく,それらに共通する敬語のより基本的な指針を示すこと」が目的であって、これを絶対に遵守しなければならないという性質のものではないということに注意が必要だ。
なお、もっと詳細な敬語の機能や使い分けについて知りたい場合は、菊地康人の次の本が秀逸だ。
とりあえず、細かいことを抜きにすれば、現代の日本語の敬語は「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の三つがあり、そのうち「謙譲語」が「相手を立てる」性質をもつ「謙譲語Ⅰ」と「聞き手に対する配慮」という性質をもつ「謙譲語Ⅱ(丁重語)」に分かれ、「丁寧語」が「です・ます」のような「丁寧語」と「美化していうような言い方」である「美化語」に分かれる五分類で説明されることが多い*1。
敬語マニュアルがこんなにあふれているのはなぜ?
ネットの記事を見ていると定期的に敬語の話題が出てくるし、敬語関係のビジネスマナーの本は少なからず出版が続いている。
なぜ、これほどまでに世の中で敬語に対する関心が高いのだろうか。
その理由の一端が分かるようなものが、平成16年度「国語に関する世論調査」だ。
この資料によると、「正しい敬語を使っているか自信がない」は、男性の30代と女性の20~40代で5割を超えており、全体でも約4割が「自信がない」という回答になっている。
また、その一方で、平成19年度「国語に関する世論調査」によると、「国語の乱れ」として「敬語」を挙げる割合が最も大きいという結果になっている。
つまり、「自信がない」という状況でありながら、「乱れている」ということが気になるというのが敬語という言葉に対する意識ということになる。
よくよく考えると不思議なもので、自分の使用には自信がないのに、他人が使う敬語についてはどうも乱れているのではないかというような意識があるようだ。
そんな状況であるからこそ、「敬語」に関する話題は、注目を集めやすいという性質があるのかもしれない。
逆に、このように「これが正しい敬語だ」というような言説が溢れかえることによって、「何が何だかわからない」という状況になっているのかもしれない。
このあたりの実際がどうなのかはよくわかりませんので、エライ人の意見を待ちます。
正しい敬語に対する欲求
大人として恥ずかしくない様に、正しい敬語を使いたいと思う人は少なからずいる。
だからこそ、「先生、この言葉遣いで大丈夫ですか!?」と書類の点検を頼まれるという国語の先生あるあるがあるのでしょう*2。
そして、次のような一覧表がやはり定期的に出回って、履歴書や志望理由書を書く学生が夜な夜な参照にするということが繰り返される(笑)
どうして、このような「正しさ」に対する欲求があるのかという点について、ちょっとおもしろい話がある。
浦滝真人(2005)*3によると、敬語は「ある人間関係について“こう言っておけば大丈夫”という形で不確定性を捨象する」ことで人間関係を単純化して決め込むことができるシステムである」というように述べている。
細かいことを抜きにして大ざっぱに言えば、「敬語」を「正しく」使うことによって、相手がどのような立場の人間であるかが全く分からないとしても、人間関係を必要以上に脅かしたり、不用意に相手のことを攻撃したりということが避けられるのである。
もちろん、この「敬語を正しく使えば、相手を脅かさない」ということが成り立つ前提として、「こういうときにこういう敬語を使うということはこういう意味ですよ」というお互いに通じているという「規範性」があることが重要だ。
このような指摘を踏まえて考えると、我々が「敬語」について考えるときには「正しい敬語とはなにか」ということに対しての欲求が生まれる理由も推測できる。
つまり、「規範性」を脅かさないことによって、「人間関係」について安全にコミュニケーションを成り立たせることができるシステムを守ることになるからだといえるだろう。
この心理は普段、大人と話さない子どもさえも「とりあえず、丁寧に敬語を使えば相手は怒らないだろう」と一生懸命敬語を使ってはなそうとするのだから、かなり根深いものがある。
そして、ポライトネスという発想へ
この「正しい」「正しくない」という敬語の話については、「人間関係」や「相手」との観点でだんだん話すようになっているが、これにも背景がある。
それが、ブラウンとレヴィンソンの「ポライトネス理論」と呼ばれるようなものが影響している部分がある。
ポライトネス 言語使用における、ある普遍現象 Politeness:Some Universals in Language Usage
- 作者: ペネロピ・ブラウン,スティーヴン・C・レヴィンソン,田中典子,斉藤早智子,津留崎毅,鶴田庸子,日野壽憲,山下早代子
- 出版社/メーカー: 研究社
- 発売日: 2011/08/20
- メディア: 単行本
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現在のところ、このポライトネスの話がほとんど国語教育にはいかされていないのは、個人的には問題だろうなぁと思っている。
ポライトネスの話はつまるところ「人間関係」を脅かさないための振る舞いとして言語を超えて普遍的なものがあるという話であるし、それに基づいて日本語の敬語研究が「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」という形式を超えた、もっと具体的な行動として分析されている。
大ざっぱな言い方をするならば、ただの形式だけで正しい正しくないといっているような話じゃないということだ。
覚えるだけの文法
その研究の成果が直接的に教育になるわけではないが、それでも「〇〇という形が正しい」「◇◇という言い方は間違っている」というような「形さえ覚えればいい」という敬語学習から脱出できないものかと思う。
しいては「覚えればいい」という文法教育から脱出する観点はあると思う。
特に、この敬語に関する内容は、分野で言えば語用論と呼ばれるような部分であり、国語科で案外意識されていない観点である。
整理は上手くできていないのだけれども、発掘してみたい水脈はあるような気がしています。