あまりに大きなタイトルをつけるのもどうかと思うのだけれど、言いたいことはこんなことなので…。
まあ、大掛かりにやるとエライ大掛かりな話になるので、今のところの自分の考えの整理として書くくらいなものとしてみてください。一応、参考になりそうな文献は紹介しておきますので、各自の結論は自分で考えるというアクティブ・ラーニングという終わりで勘弁してください*1。
現行の学習指導要領の「言語活動の充実」に関して
現行の学習指導要領は、「生きる力」を育てることと「確かな学力」を確立することなどが柱になっており、そのための改善のポイントの一つとして、すべての教科で指導計画の中に「言語活動」を位置付けることが明記されている*2。
これは、いわゆるPISAショックを受けて出された「読解力向上プログラム」などの議論が背景となっていて、いわゆる「言語活動の充実」と呼ばれるものである。
この「言語活動の充実」の中で、国語科は「知的活動(論理や思考)やコミュニケーション、感性・情緒の基盤」である言語に関する能力などを育む中核の科目として位置付けられている*3。
だから、この学習指導要領の改訂に併せて、国語教育界隈では、「単元を貫く言語活動」という言葉が出てきたり*4、「話すこと・聞くこと」に関する授業作りが見直されたりというようなことがあった。
単元を貫く学習課題と言語活動―課題を解決する過程を重視した授業づくり― (シリーズ国語授業づくり)
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- 発売日: 2015/08/08
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交流 ―広げる・深める・高める― (シリーズ国語授業づくり)
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上記二冊に関しては、現行の学習指導要領の指導事項を十全に実現するために書かれているものである一方で、昨年度の発売ということもあり、内容としては「アクティブ・ラーニング」に関する議論を考慮に入れながらの記述になっているので、非常に授業作りを勉強するのにおススメです。ただ、小学校中心です。
このように現行の学習指導要領になって言語活動が盛んにおこなわれるようになった*5のだが、そのような流れもあって、「アクティブ・ラーニングって今更言わなくても、もうやっているんじゃないか?」という話が色々なところで聞かれているように感じる。
この意見に対する自分の現時点の立場としては、「半分正しくて半分正しくない」というものだ。
アクティブ・ラーニングの形態との関係で
何度も引用しているが、アクティブ・ラーニングの定義を確認しておく。
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。…(中略)…発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である
八月一日の審議のまとめ(案)が出て、その文書の中ではアクティブ・ラーニングが前面に出てこないでいるので、この定義は過去のものとして扱った方が良さそうなのだけれども、とりあえず、アクティブ・ラーニングというのであれば、この定義は参照しておいていいだろう。
結局、ここで言っている内容としては「一方的な講義形式の教育」ではなく、生徒が「参加」しているような授業であれば、ある意味、何でも「アクティブ・ラーニング」として扱えるということだ。
さらに、京都大学の溝上慎一先生の定義も併せて挙げておくならば、
一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知的プロセスの外化を伴う。溝上(2014)など
という内容であり、「認知プロセスの外化」に重点があり、外化に伴って必然的に「言語活動」が行われることになる。
この定義に基づいて、現行の「言語活動」について、溝上(2016)『高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)』では「初等中等教育においては、アクティブ・ラーニングの定義の中で講義一辺倒の授業を脱却することを謳わずとも、現行学習指導要領における言語活動の施策のなかで、すでに謳っていると見なすことができる」(P.48)と述べられている。
したがって、文科省の資料における定義でも、学術な定義でも、「既にアクティブ・ラーニングをやってきている」という主張は一面で正しいといえる。
アクティブ・ラーニングの意味との関係で
しかし、「ならば、今後今までやっていくことを深めていけばよい」という短絡的な立場には反対である。
八月一日に出された次期指導要領改訂の審議のまとめには、以下のような記述があるからだ。
形式的に対話型を取り入れた授業や特定の指導の型を目指した技術の改善に留とどまるものではなく、子供たちの質の高い深い学びを引き出すことを意図するものであり、さらに、それを通してどのような資質・能力を育むかという観点から、学習の在り方そのものの問い直しを目指すものである(PP.16-17・下線引用者)
今回の審議のまとめから「アクティブ・ラーニング」という言葉がカッコ付きになったのと関連することなのだろうが、各所で指摘さものが、抜本的に今までのありかたから転換されると言われる。
端的に言えば、上の引用の下線部に注目するとわかるように、「何をどこまで教えるのか」という「コンテンツベース」から「どのような資質・能力を育むか」という「コンピテンシーベース」への転換*6であり、「学習の在り方そのものの問い直し」を目指すものである。
ここまでくると「アクティブ・ラーニング」という用語そのものではなくなってきているものの、このような「学習の在り方そのものの問い直し」の文脈でアクティブ・ラーニングが位置付けられていることを無視することはできない。
このことについて、前掲の溝上(2016)では、第一に「トランジション課題の解決のため」ということを挙げ、第二に「学習と成長のパラダイムの観点」ということを挙げている(PP.49-51)。
前者は「社会・仕事」の変化をにらんだときに、今までと同じ育成課題ばかりが問題にしていては、子どもを社会に送り出していくことが難しくなっているということが背景にあり、トランジション課題を解決していくためには、上と下の段階をにらんで小中高大と各段階でできることをリレーしていくことの必要性が述べられている。
後者は、「学力の三要素」に基づいて、基礎的な知識技能や思考力・判断力・表現力の育成やそしてそれらをどのように使って生きるのかということを、構造化して位置付けていくという発想であり、「教授のパラダイムから学習のパラダイム」へとパラダイムそのものが転換されているということである。
したがって、上記のことを踏まえて考えると、「今までのことを深めていくだけでいい」という主張にはやや無理があるように感じられる。
個人的なまとめ
国語科においても「実の場」という概念によって、「実際に社会や生活の中にあることを課題にして行く」という発想はあったが、その発想は「現在の子どもたちの課題」という色合いが強くに「トランジションリレー」と呼ばれるような子どもたちがどのような学習履歴をたどってきて、今後、どのように学ぶようになることを期待して送り出すのかという発想は弱かったように感じられる。
これまでの課題解決型の授業や問題解決型の探求は、「現在の子どもと将来の姿との関係」を考えて授業を構成していた、今後は現在の子どもが学校で学んだことを将来、どのように使ってさらにに成長していくのか、成長していくために現段階で指導しなければいけないことは何かというような発想が必要になるのではないかと思う。
だから、たとえば佐藤洋一ほか(2016)「国語科におけるアクティブ・ラーニングの開発と課題 ― 「質の高い深い学び」につなげる活用型テキスト ―」(機関リポジトリ)の中で、国語科固有の能力と汎用的な能力の関係や国語科における「深い学び」とは何かということ、そしてその「学び」がどのように資質・能力として位置付けられるのかということが問題とされているようなことに、自分の問題意識は似たところがあるような気がする。
最終的な結論として、今まで「いろいろ考えてやってきた実践は十分に意味がある」と言えるけれでも、「それをどのように位置付けて、それこそ教科や現在に留まらないで位置付けていくことが、教科にも必要だ」という漠然と、まだまだ不格好なものになります。
簡単にいえば、目の前のことだけを解決しているだけではいけないよね、という感覚です。
*1:こういうアクティブ・ラーニングを授業でやると各方面から怒られます。
*2:「言語活動」をやっているので、「アクティブ・ラーニング」をやっているということになるかは後述するが、言語活動は直接的に授業の方法そのものだが、アクティブ・ラーニングは学習論などまで含んでいる、より広範な概念のように思う。たとえば、溝上(2014)『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』など参照。
*3:「国語科が言語活動をやるなら、他の科目は手間のかかる言語活動をやらなくてもいいのではないか」という話も出てくるかもしれないが、それは能力が簡単に転移しないことを無視した議論だろう。「数学で論理力を育てるならば国語は文学だけをやり感性をだけを育てればいい」という議論がおかしく聞こえるのと同じ話である。たとえば奈須(2015)『教科の本質から迫るコンピテンシー・ベイスの授業づくり』など参照など参照
*4:ただし、もう今は使わないようにと言われてます。
*5:厳密に言えば、このような言語活動の充実が言われるよりも前から、国語科教育では大村はまなどの単元学習の実践や研究はある。
*6:たとえば、前掲注3奈須(2015)などでもこの視点は指摘されている