ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

教えることとできるようにさせることの差は悩ましい

授業をしてみての雑記。

普段の授業は、できるだけ長いスパンで考えて、じっくりと読んだり書いたりする時間を取るような形で授業をやっているのですが、お仕事としてたまに入試の受験指導として問題の解説をするのです。

その時の生徒のリアクションや自分自身の手応えに関して思うところがあるのです。

丁寧に「考える」時間がある授業は楽しい 

アクティブ・ラーニングが流行したから……というわけではなく、どうしても自分が大学や大学院で勉強してきたものは、「単元学習」のような国語教育であるので、国語の授業であれば、「実の場」と言えばよいか、生徒にとって切実な問題を取り組む時間を授業の時間にしたいと思って授業を考える。

そのため、自然と授業の方法としても「ペアワーク」で議論させてみたり書かせてみたりと「言語活動」とも「アクティブ・ラーニング」ともつかない活動のオンパレードではある(笑) 

s-locarno.hatenablog.com

苦労して……と自分でいうのは何なんだけど、時間をかけて作った単元が、それなりに生徒に受け売れられて、じっくりと考えたり、成果を表現としてアウトプットしたりしている様子をみると、いくら鈍感な自分であってもやっぱり嬉しい。

もちろん、「活動あって学びなし」になるなって話は、学生の頃から耳にタコができて角質として沈殿してもはや大地主レベルで居座るくらいに思い知らせれている*1だけに、かなり注意深く、生徒の成長を評価するようにはしている。  

s-locarno.hatenablog.com

地味ではあるが、生徒の書ける文章の量や表現の幅が豊かになっていることや図書室の利用率が上がっていることなど、少しずつ、目に見える成果もでているのだけど、どうしても、一回の授業で、一回の単元で「目に見えてできるようになりました」ということはない。

時には、生徒が乗ってこない単元などもあって、そんな時は大村はま先生に倣って*2生徒に平謝りで方向転換である。

単元が上手くいかないときは、心に来るよね、うん。

解説中心の授業の誘惑

自分はもともと塾講師をずっとやっていたこともあって、問題解説の授業についてのそれなりにテクニックや知識は持っている。

もちろん、さすがに塾講師を退職して本業の頃よりは、入試問題を解いたり解法のテクニックの研究をしていないから、本業にしている人と争うようなつもりはないんだけれども、それでも、普通の教員よりは手立てを持っているので、そのタイプの授業はあまり苦労することなくやれるのです。

むしろ、生徒のリアクションをみると「面倒な作業をやらされるよりも、よほど分かりやすくていい」というようなものや「学力がとても伸びた気がする」というようなものが少なからず出てくる。

どうしたって、単元学習なりアクティブ・ラーニングなりをやろうとすると、模擬試験で直接点数に繋がるような授業や問題演習の時間は取れない。そんな状況であるので、入試のことに頭がいっぱいの生徒にとっては、予備校のような授業のほうがウケがいい。

うーん…高校一年生だから、そこまで入試入試といいたくはないんだがなぁ…。

つまらない二項対立なのかもしれない

しかし、だからといって国語の授業を問題演習中心にはしたくないなぁ…というのが個人的な思いなのです。

まあ、子どもの意見ではなく、自分の育ちのゆえの判断であるので、子どもの立場からものを考えていないという批判は大いにありうるのだけど。

たとえば、『学び合い』の立場からすれば課題を解けるようにさせることか単元学習かというような二項対立は本質的なものではないという意見も出てくるだろうし、勤務校の立場からすれば、問題演習をさせるほうが優先度は高いんだろうなと思ったり。

「教員のやりたいことは教員の自己満足でしかない」という話は色々なことを聞くけれども、この言葉を聞くたびに、生徒の反応を思うとぎくりとさせられる。

受験勉強をやりたい生徒にとってもいいものになっているか分からないし、初めからそこにいることも放棄している生徒にとっても意味のない授業になっているし、いったい、自分が教えている相手は誰なのだろう。

他の人がどう考えているのかがわからない

生徒の責任にする気はまったくないのだけど、何をやったところで満足度が高い生徒は満足度は高くなるだろうし、逆にそこにいることさえも嫌だと思っている生徒に対しては何をやっても受け入れられることはないとは思う。

『学び合い』であれば「一人も見捨てない」という発想から、子ども同士の関係を見取るのであって、教科の本質だとかをぐちゃぐちゃ論じる大人の都合については、ばっさりと切るのだろうけど、どうしたって教科教育の畑の人間だから、そこまで割り切って教科教育史の問題意識をわきに置いて授業をやれそうにない。

でも、だからといって、回りくどく色々なことを学んでもらうような授業をやり続けるのにも気力がいる。その気力の割には、文字を読むことさえも放棄している生徒がいることに、問題意識を持たざるを得ない。

活動すればアクティブ?そんな次元はとっくに通り過ぎてきているんだよ。活動して楽しそうにやっていたって、文字を読むことは嫌い、考えを書くことは嫌い、発表は嫌い、そんな反応をする生徒が、みんなバラバラにあれが嫌い、これが嫌い、それは苦手といって、バラバラに動いている教室の内情を見て、本当に学習が成立しているのかがいつだって悩ましい。

*1:ちなみに自分の教育実習は朗読をやらせたのだが、それがまさに活動あって学びなしだと師匠に激怒されたのはよい思い出

*2:参照『日本の教師に伝えたいこと 』(ちくま学芸文庫)

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