考えてきた短歌の授業が動き出しました。
「案ずるより産むが易し」とはよく言ったもので、やりだしてみるとこちらが心配したよりも大変よく取り組んでくれています。まあ、生徒がこちらに合わせてくれているのかもしれませんが、狙ったことを考えてくれています。
これからどうなるか楽しみなところではあるけど、感触を忘れないうちに書き記しておこう。
これまでの短歌の過去記事
短歌の授業をやるために、二か月くらい考えていたので、このブログでも何度か自分の考えを紹介している。
色々、考えてみたのだけれども、自分の中で生徒に実感してもらいたいことは、定型のよさやその定型の中で表現するために、時間をかけて表現が磨き上げられたことなんだなぁという気持ちになっていた。
やっぱり、この本の影響が大きい。
とにかく自由な一青窈と、その一青窈に定型を活かした短歌の手ほどきをする俵万智のやりとりが抜群に良かった。
だから、この過程で自分が感じた「短歌のよさ」を何とか授業に落とし込めないかと思っていた。
創作させるかは悩んだよ…
短歌の授業をやることを生徒に予告したときに、大福帳に「創作は嫌だ」ということが書かれていたことが本当に悩ましかった。
しかも、その子は物を考えたり自分の意見を言ったりするのが好きな子だと感じていただけに、余計にどうしたものかと頭を悩ませてしまいました。
確かに、創作が嫌いだという気持ちはわかる。ろくにやり方を教えてもらわないのに、思いつかないもどかしさは苦しいだけであるし、かりに上手くできたとしても、その完成したものを無理やり晒されるのも、場合によっては面白くないものである。
特に、自分の琴線に触れるような短歌の創作をするのであれば、人間関係があまり動かない学校の中で晒すのは勇気がいる…というか、あまり気乗りしないものというのもわかる。
評価される…というのも嫌なものではある。でも、感想は聞きたかったりすることも少なくない(笑)
まあ、悩みましたが、丁寧に作ることに慣れてもらうようにしたり、無理やり提出を求めないというような落としどころで決着をつけました。
導入は「歌」を使いました
去年、他の先生と協力して短歌の授業をやるときには、現代のJ-POPを使って授業ができないかと相談して、次の曲をテーマソングにして授業をしました。
スピッツは個人的には好きですが(笑)それとは無関係に教えてもらったこの曲の歌詞を文字った「ココロに名前をつけてやる」というキャッチフレーズは、自分の中の短歌の感覚にストンと落ちました。
そんな授業で作ったPowerPointを活用して、生徒に導入の授業を行いました。
自分で言うのもあれだけど、このPowerPointは上手くできていて(笑)、例えば、石川啄木の「不来方の草のお城に寝ころびて空に吸われし( )の心」という穴埋め問題を考えさせるときに…
を重ねて紹介して「100年前も親の世代も君たちの世代もみんな十五歳に感じるココロは同じなんだね」というような話をしたりして、短歌の世界の言葉が時代を経てイメージを作り上げていることや、一つ一つの言葉の選び方の巧みさを感じてもらいました。
実際の創作は定型に慣れることから
この導入の授業の後に、現在、やっているのが「定型にあてはまる一番よい言葉は何か」を考えることで、定型のよさを感じてもらったり推敲の練習をしてもらったりしています。
そのための題材として、東直子さんの穴埋め形式で考える方法をヒントにしました。
その短歌に「この言葉しかない」という感覚を磨くには、穴埋め短歌をやってみることが一番よさそうだなぁと思っている。
そして、その穴埋め短歌の題材にしても、いきなりプロの作品をやらせると、発想が遠くて辛いような気がして(実際、上の本の穴埋めはほとんど当てられない(笑))、まずは同年代の作品からやってみることにした。
そこで、東洋大主催の「現代学生百人一首」の入選作品を利用しようと考えた。
過年度の入選作品が紹介されているので、その内容から生徒に面白いと思ってもらえそうな作品を選び、穴埋めに挑戦してもらおうというわけである。
たとえば、授業では東京都立鷺宮高等学校1年藤田くるみさんの作品を、以下のような穴埋めにして出題してみた。
病院で大丈夫なのかと聞く母に(七・七を考えよう!)
どんな言葉が入るかについて考えてみてください。答えは、のちほど。
この穴埋め、決して易しくないないので、一生懸命、七・七のリズムになる言葉と、自分の表現したい気持ちのバランスを取ることに懸命になる。
そうやって作ってきた生徒の作品の例としては…
病院で大丈夫なのかと聞く母に 黙ってうなずく 強がりのクセ
病院で大丈夫なのかと聞く母に まだちょっとだめたまには甘える
病院で大丈夫なのかと聞く母に ダメだといったらどうする気なの?
といったような作品が多くて、「病院」に連れられてきたのが自分だという発想が多かった。
しかし、実は、この作品。作者のオリジナルは
病院で大丈夫なのかと聞く母に家はとつけて大丈夫という
という作品で、自分が教えた生徒の発想とは正反対で、入院したのは「母」のほうなのである。
この発想の大逆転が「家は」という一言で引き起こされていることに、生徒たちは大いに感心したようで、「短歌の言葉の重み」を体験してもらうのにはよい例になったように思う。
また、生徒たちは全部の状況を説明しようとしてしまって、平坦な歌になりがちであることにも、この「家は」という「は」の使い方一つで、全部言わなくても色々と分かるということの面白さ、余白を残すことの面白さが伝わったようである。
好きな歌を短歌にしてみよう
『短歌の作り方、教えてください』の中で一青窈の歌を俵万智が短歌にしていたのに倣って、生徒にも実際にやってもらった。
自分の好きな曲を自由に持っておいでと指示していたので、好きな曲だけにいい加減な短歌を作りたくないという生徒の心理を利用しています(笑)
歌詞を短歌にするには、とにかく言いたいことが多いのが最大の関門になる。生徒にとっては、どの言葉もどの表現も好きだから好きな曲として持ってきたのに、「31文字しか使えません」と言われたら、もう、大混乱である(笑)
とにかく、情報量を詰め込もうとして言葉を選ぶことに一生懸命になっている。だって好きな曲だから余すところなく誰かに意味を伝えたいから(笑)
こうなってくると、自分が最初に想定していた「定型を味わうこと」や「言葉のちょっとした違いや重みを感じる」ということについて、だいぶ体感してくれているように感じる。
生徒の作品例としては…
三月のウージの森でめぐりあい「またね」も言えず千代にサヨナラ
The Boomの「島唄」ですね。言葉を合わせるために歌詞以外の情報をもって来たり、表現を工夫してみたりとなかなか頑張りました。
ここからが本番
さて、ここまではゲーム感覚で生徒の方としても楽しくやっていたのだけれども、ここからが本番である。
それは、短歌の鑑賞と実際に自分の作品の創作という二点があるからだ。
どちらもある意味で表裏一体であって、独立するものでもないとは思う。
鑑賞を通じて、表現や定型の豊かさを学ぶことになるだろうし、創作することで鑑賞した短歌の工夫の巧みさも実感されるだろうと思う。
さて、ここまで楽しくはならないと思うけど、生徒はどこまで頑張ってくれるかな?