私信というか備忘録というかそういう類の記述。
まだ、体調不良から前回ではないので、リハビリがてらのメモ書き。
最近の話題のことには反論したくなる
こちらの本については、また色々と書きたいことがあるので別に書くが、タイトルに釣られて「主体的な学び」や「アクティブ・ラーニング」を適当に批判する層が一定数いるのに、何と、まあ、無責任と言いますか…。
単純な疑問として「教えないこと」が「主体的な学び」に直結しているのか。まあ、自分の中の結論としては、「教えないことを主体的な学びとして安易に扱ったらダメでしょう」という部分はある。
総合学習にしてもワークショップ型の授業にしても、子どもと目標を話し合ったり学びの成果を確かめ合ったりする教員の役割が大きいのであって、単純に「教えない」という言葉だけが上滑りして、教員が何もしないで見ているようになっては意味がない。
ちゃんと、「教えない」という文字面だけ見て、授業を放棄することなく、授業における教員の役割は考えないとダメですよね。
さて、本題。「問いを与えない」のは「主体的な学び」か
国語の授業で批判されがちなのが「文学は自由に読んでいいのに、唯一の解釈を正解として与えるのは良くない」ということだが、これに対するアンサーとして「子どもたちの自由に読ませて考えさせよう」という実践は少なからずある。
まあ、様々な実践があるので、十把一絡げに論じること自体が乱暴であるのだけど、一つの方法論として「教員から問いを与えない」で授業を進めていくという方法はある。
実際、自分も「初発の感想」をもとにして、「生徒の考えを中心にして」という形で授業を進めていることはある。
生徒たちの中から出てきた感想だからこそ、その問いに対しては生徒はかなり真剣に議論や考察を深めてくれるし、その過程における「学習活動」は「主体的」に感じられている。
ただ、そうやって生徒に与える問いは、教員である自分がかなり意図的に誘導しているものであるのは間違いない。
そのことを「生徒の主体的な問いではない」というのであれば、反論の余地はない。実際、授業案の段階で「この幅に収束させられるだろう」という落としどころを決めてから授業を立てているし、そもそもクラス間で差異が出てはいけないという縛りがどうしてもあるからね。
その疑似的な「主体性」を問題とされてしまうのであれば、自分の方としても心に引っかかるところがあるだけに、反論ができない。
とはいうものの、「問いを与えない」ということを全面に押し出して、教員が内容の交通整理だけに回るような授業のあり方を「主体的」と呼ぶのも疑問がある。
「問いを与えないけど、『問いを自分で考えよ』という指示を出す」というのは、ほとんど矛盾している。命題としては「主体的に学ばせる」というのと同じような自己矛盾をはらんでいるように感じられる。指定された教材で、共有されることが前提の、教室という空間の読みが、日常の生活の相似形としての自由な読書として成立しているのかは、ほとんど信じることはできない。「自由に読んでいい」という教員の指示が、字面のままに「自由」ではないことは看過できないように思える。
強制と自由の間
まあ、強制的に教えることと自主性にまつわることを二項対立でとらえようとするのに無茶があるように思うのだけど。
まあ、よくわかりませんが、そのうち勉強しますよ。