ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

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【書評】『なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか』をどう捉えるか

先日、「あとから別にまとめる」と書いておいた本の書評の記事です。 

なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか

なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか

 

「教えない授業」という言い方が、非常にタイトルだけを見て上滑りしていきそうで、色々と引っかかるのですが、中身を読まないでアレコレというのも憚られるので、kindleバージョンで購入し読破。

以下、本の内容についての紹介と、それに対する疑問点を書いておきます。

なお、kindleで購入した関係で、引用のページ数が載せられません。ご了承ください。

「主体性」を伸ばすために考えたという

本書で述べられている「教えない授業」が生まれる背景には、著者の次のような問題意識が一貫して繰り返し述べられています。

僕たち教師や大人がしなければならないことは、「教師や大人がいなくても学び続ける子」を育てなければならないということです。そのためには、教師が前面に立って「教える」スタイルでは、子どもたちは教師に依存してしまいます。

そして、「教えない授業」の中身を次のように説明しています。

子どもたちに課題にぶつからせ、友達と協力して解決方法を見つけさせるという手法を取ります。教師の役目は、「知識を分かりやすく教える」から、「問題解決の方法を支援する」に大きく変わります。このため「教えない授業」といっているのです。

このような背景と意識から授業が組み立てられているため、次のような批判が何度も本書の中では出てきます。

主体性を身につけた生徒たちは、授業内で解決できなかった課題を、授業外でも続けて考えるようになります。反対に、講義型の授業に慣れている生徒は、教えられることを「待つ」傾向があるのも事実です。授業外での学びと学校での授業の循環が自分でうまくつくれず、授業で解決できなかったことを、塾や予備校に頼るようになります。一見効率的に見える授業でも、「教えられる」ことに依存した非効率な学びになってしまう可能性もあります。

社会の変化に一番疎いのが、残念ながら学校の先生です。進学校では生徒を大学に合格させることが最大の関心事になっています。このため、社会の変化よりも大学入試の変化のほうに関心が向きます。「どうせ今回も大学入試は変わらない」という声も聞こえてきます。

しかし、たとえ大学入試が変化しなくても、社会の変化に対応した教育を行うべきです。大学入試が変わらないのなら、学校教育も今のままでいいという考えは、教師としてあまりに無責任ではないでしょうか。

この批判の内容自体は自分自身も思っていることなので反対することはない。どうしても学校という場所にいると、教員の振る舞い方や楽天的な見通しに対して不満に思うことが少なからずあるので、こういう問題意識をはっきりと述べてくれることは、今後、自分が何かをするときにも心強いとも感じる。自分も最近、こんな揶揄したツイートしているしね。

「教えない授業」の中身は?

肝心の「教えない授業」の中身であるが、それは本書では明確に「こういう構造で行うものが『教えない授業』である」とは述べられていない。

本書が教育の実践書ではなく、どちらかと言えば日経BP社という出版社から見ても分かるように、一般向けの書籍であるので「こういう授業がすごくよかったです」という成功事例の羅列である。

そのため、授業の組み立てやそのような授業を実践するに当たっての問題点などが書かれていないため、明日の授業から応用して……とはしにくい。それどころか、その表面的な方法論を取り入れて、短絡的に失敗したり、失敗ならましだが、失敗が顕在化しないで意味のない時間が続いていくことのほうが問題が大きいと感じる。

まあ、そのことをわきに置くとして、本書で述べられている実践の方法は次のようなものである。 

まず、「知識や解法を分かりやすく教える」という従来の先生の役割が大きく変わります。英語の授業では、英語の知識ではなく、英語の学び方を教えます。例えば、生徒が分からない単語に出合ったとき、「語義」ではなく「調べ方」を教えるのです。つまり、「何をどの程度教えるのか」ではなく「何をどのような手段で学ばせるのか」を意識した授業になります。

そのうえで、教員の役割を「ファシリテーター」としており、「教室を居心地よくする」役割を教員が担うと述べられている。また、教員が「余裕ができる」ようになった分だけ、生徒のことをよく観察し、フィードバックを与える役割があるとも述べている。

そして、実際に本書で行われている授業の内容の一例としては、「生徒の授業を任せる」ということが大きなものである。そのことによって、「「教えない授業」では、生徒に授業を「任せる」ことによって、様々な時間を短縮でき」ると述べている。

その授業の任せ方というのが「目標を明確に示すこと」なのだという。たとえば、次のように書かれている。

「教えない授業」では、「スティーブ・ジョブズのスピーチから、あなたが実践したいと思うことは何か述べることができる」「宇宙でのゴミ問題について、図を使いながら話すことができる」といった、思考力・判断力・表現力をフル活用し、日常生活に結びつけた具体的な目標を設定する必要があります。

「教えない授業」では、生徒が主体的になって学ぶため、授業の目標を明確に示すことがとても大事です。山の頂上にある「目標」に向かい、頂上までのルートを生徒が主体的に選び、登っていくイメージです。その頂上にある「目標」とは、授業における「問い」に当たります。

このように目標を示したうえで、生徒に活動を任せるのが「教えない授業」なのだという。もちろん「目標に向かって授業にどのような活動を取り入れ、どのような支援をしていくかを計画する能力」や「生徒につけさせたい力を整理して、適切に評価していく能力」の必要性も説いており、ただ「丸投げして終わり」というようなことは言っていない。

また、このような「授業」が成立するためには、「全員が学ぶこと」や「共に」何かを成し遂げることの価値をきちんと子どもたちに粘り強く伝えることが重要だという。実際に、そのような考え方に反発する生徒はいたそうだ。

しかし、そのような「土台づくり」のために、生徒一人一人とノート交換をすることや反発する生徒にも粘り強く接したりするうちに、生徒のほうがお互いに主体的に行動吸うようになったという。

したがって、「教えない授業」という字面から「教員は何もしなくてもいい」という発想を持つことやそういうイメージに基づく批判は、本書の意図するところからは大きく外れている。

「教える」という一方向で「これだけ教員はやったんだ」というアリバイ作りに教員が満足することを放棄し、もっと、実質的に「ちゃんと子どもたちが全員が成長すること」を願って、合理的に考えられた授業であるといってよい。

「教えない授業」の気になるところ

「評価」の重要性をいいながら、評価に関わる話は結構雑である。出版社のせいもあるかもしれないが、ところどころに現状の大学入試で結果が出ているだとか英検などの成績が良かったなどの「短絡的」な成果を前面に押し出してくることに違和感がある。

両国高校という進学校だから仕方ないのかもしれないけど、例えば、ジグソー法を用いて入試問題に解かせると入試問題を解くことが上手くなるという話が書いてあったが、「問い」を大切にしているという方向性からすると、ジグソー活動を入試問題でやらせてもなぁ…と思ったりもする。

社会の変化についての重要性を述べながら、「教えない授業」の成果の量的な部分を「大学入試」や「資格試験」で説明しようとするのは、まあ、どうなんだろうね。質的な生徒の変化の部分は「学校行事」などでよく頑張ったという話で終わっていて、「教えない授業」がどのようにして社会につながっていくのかという点の説明は弱いでしょう。

溝上慎一先生を途中で引用している部分があるけど「講義型の授業の後に、ディスカッションなどを取り入れるアクティブ・ラーニング型の授業が、最初の一歩としては最も取り組みやすいのではないか」という話だけを持ってきて、「トランジション」について触れていないのも不自然だし、「主体的」を何度もいう以上は「社会へのトランジション」を述べていないのはやや不自然。

一応、「教えない授業」を実社会につなげるという話で、「クエストエデュケーションプログラム*1」の話を紹介しているが、「出来合い」の、大人が「持ってきた」課題の中で、「答えがない問いについて活動をしているから実社会につながっている」というのは自家撞着している。いくら「クエストエデュケーションプログラム」で「与えられる」問いが「答えがないもの」だったとしても、その問いはどこまで行っても「与えられたもの」であって、生徒の中から生まれた「問い」ではない。

企業に関わっているから「実社会」というのも安易だし、言い方や見せ方を変えても「問いを与えている」ということが「問い」を大切にしているという授業の方針とは根本的なところで食い違っているように見えるのだが……。

また、家庭での「教えない」教育の部分については、かなり精神論によっている。見ていて、こういう精神論的なものが先行されるとちょっとやりにくいという個人的な趣味嗜好はある。

まあ、しかし、授業についての「教えない授業」の意図するところは、非常に分かる話であるし、授業の組み方も理にかなっていると思う。

「子どもの主体性」を伸ばすために「子どもの人間関係作りを土台」にして、「適切な目標を与えて、その達成を目指させる」という授業のあり方には、異を唱える部分はない。

ただ、大きな疑問がある。

このような子どもの動かし方を目指した方法として「教えない授業」なんて言われるよりも前に、西川純先生の『学び合い』がある訳だけど、「教えない授業」は『学び合い』と何が違うの?

色々な研究者のことを引用して置いて、これほどよく考え方の似た『学び合い』については一切、話が出てきていないのは何故なんだろう?

逆に『学び合い』の側からは、この「教えない授業」をどのように見るのかは気になるところです。

教員は読むべきか

読んでおいて損はないとは思いますが、明日の授業から役に立つことは書いていません。教員同士の意識改革を狙うための啓発書としてならよいかと。

*1:このプログラムは指導したことがあるが、個人的にこのプログラム自体が、結構、色々と「総合学習」と呼ぶには荒いよなぁと思うことはある。そもそも「生徒に適切な目標を与えて…」という「教えない授業」に対してこのプログラムはそれぞれの段階での活動の目標が不明確だし、一方的に決まっているし…。

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