とくに根拠もなく思っていることをメモするシリーズ。
最近はこんな本も流行っていたりしますが…
まあ、アクティブ・ラーニングの流れですよね。
かくいう自分も色々と言語活動といいますか、アクティブ・ラーニングといいますか、生徒の活動を重視して自律した大人にしていきたいと思っているのですが、そんな日々の授業をしているのですが、生徒の様子を見てふと思ってしまったことが本日のテーマ。
タイトルにもある通り、授業の中で生徒は「作業」をしているのか「学習活動」をしているのかということが気になったのです。
課題に取り組んでいる姿に満足していないか
生徒が一生懸命書いたり読んだりしている様子を見ていていやな気分にはなる教員はあまりいないでしょう。
自分が一生懸命に教材研究をして、作り上げた課題に対していろいろな反応を示しながらも、取り組んでくれる生徒の様子を見ていると気分はよくなるものです。
だけど、そのことに満足していると、生徒のやっていることを見誤るような気がしてくるのです。
例えば、与えられた課題に対して一生懸命に取り組んでいるように見えても、書いてきた文章の内容の質が期待したほどでないときに、はっと気づかされてしまうことは多い。
今年度の授業をやってきて、自分が思っているように生徒の考えていることが深まっていない感覚があったけど、それは自分の生徒の見取りの悪さだったのかもしれない。
つまり、一生懸命やっているように見えて、生徒が取り組んでいることは「作業」であって、こなすことが目的になってしまって、別に頭を使った「学習活動」にはなっていないんじゃないかということだ。
学びが浅くなっていないか
上の記事でも紹介したが、松下佳代先生の次の本の「浅いアプローチ」に関してもう一度引用して紹介しておこう。
「浅いアプローチ」
- コースと知識を関連づけないこと 事実を棒暗記し、手続きをただ実行すること
- 新しい考えが示されるときに意味を理解するのに困難を覚えること
- コースか課題のいずれにも価値や意味をほとんど求めないこと
- 目的や戦略を反映させずに勉強すること
- 過度のプレッシャーを感じ、学習について心配すること
この内容を踏まえて考えると、三番目の「コースか課題のいずれにも価値や意味をほとんど求めないこと」に該当してしまいそうな気がする。
とにかく週に2時間しかないクラスで、周囲と足並みをそろえてやっていかなければいけない以上、生徒に「価値や意味」を説くことが甘くなっている感覚は否定できないかもしれない。
授業の意味を説く自信がない
最近の自分は「何のための授業なのか」ということに対してどう答えたらいいか著しく自信がない。
そのために、なんとなく、生徒に何をしたらいいのかということを課題として与えても、意味としては与えられていないのかもしれないなぁと感じる。
やらせていることは高度であっても、どこまでいってもやらされている課題なんだろうなぁ……。
自分自身がどのように授業と向き合うのかについて、ちゃんと答えを持たないでいるふらつきをどうにかしていかないとダメですね…。