時間もないのでとりとめもないことを少しだけ。
生徒に「何のために学ぶのか」という問いを授業で投げて、それに対する答えを書いてもらったものを添削している。
その時に気づいたことがあった。
何気ないことかもしれないが
生徒は何気なく書いてきた言葉なのかもしれないが、何十枚と異なる生徒の記述の中で繰り返されるある言葉が非常に気がかりになった。
それは「役に立つために」「活躍するために」というような成果主義に毒されたような言葉を使い回すことだ。
「何のため」という問いに対して、反射的に「役に立つため」という言葉を返してしまう気持ちは分からないでもない。
実際、彼らは忙しく、自分たちに課せられている課題は「成果」をださなければいけないものばかりである。
しかし、採点している方としては決して気持ちの良いものではない。何十枚と繰り返されるのであれば、なおさら。
「役に立つ」という言葉が隠蔽すること
第一に、「役に立つ」と反射的に答えてしまったことに対する自分自身の振り返りがそこにない。彼らが忙しく、日々を過ごしていて、たかだか国語の課題に何時間も使うわけには行かないことも知っている。
だけどね、それでも、自分が疑うことなく、反射的に口に出してしまうような言葉を、書くという作業をしている、その一瞬だけでも自省して欲しかったと思うことはある。
授業自体が、そうやって、何度も読み直すこと、何度も書き直すことを基本として勧めてきただけに、繋がらないことに気が重くなる。仕方ないのだけど。
第二に、「役に立つ」という言葉を反射的に答えさせてしまうような余裕のない生活を自分たち大人がさせていることが寂しい。
考えることに意味がある、我慢強く考えるから価値を生み出せる、そんなことを教えたいと思いながら、我慢強く授業をすることを目指しているのに、彼らの生活から余裕を奪うような形になっていることを問題にしなければいけない。
余裕がないのは子どもなのか、それとも大人なのか。
少しずつだけどね…
そんな苦しいことを思う一方で、生徒の記述に勇気づけられることがある。
「何度も読むことが楽しいことだ」
「色々な可能性を試せることがいい」
「一度で満足しないことが必要」
こんな何気ない言葉であるけど、自分たちの学習の中で何度も反復するということを大切にしてきたことが分かる記述が出てくるようになったのは、彼らなりの成長なのかもしれない。
自分が分からない言葉を使わないようにして話すことを少しずつするようになっているようにも見える。
我慢だろうか。ちゃんと、子どもは前に向いているのかもしれない。