ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

国語科における「文法」の扱いの難しさ

教育科学 国語教育 2017年 02月号

教育科学 国語教育 2017年 02月号

 

リーディングワークショップ関係の話から少し離れてあまり国語科的には興味を持たれない「文法」の話。

上で紹介しているように今月の『教育科学国語教育』の中では珍しく文法がテーマとなっています。文法教育について考えたいと言っているだけだったので、ここでせっかくネタが出てきたのでちょっと簡単に思ったことを書いておく。

文法とアクティブ・ラーニングが結びつく?

どうしても気になるのが「アクティブ・ラーニングを取り入れた文法の授業づくり」という特集の組み方だ。

商業誌だから多くの人に興味を持ってもらえるようなテーマでなければいけないから、こういうタイトルになるのはお察しであるけど、なかなか文法とアクティブ・ラーニングの組み合わせは難しい。

たとえば、最近は文法教育の意味を「メタ言語能力」という観点と結びつけて論じることがある*1。その結果、実際に子どもたちが言葉を集めてきて観察してみたり言葉の現象について説明をしてみたりするような活動になることが多い。だから、そのような活動をさせればアクティブ・ラーニング的に見えてしまうことが多い

しかし、話はそんなに簡単にいかないのです。

「文法教育」からの問題の指摘としては、例えば森山卓郎,矢澤真人,安部朋世(2011)「国語科の学校文法における「品詞」について」には

メタ言語能力の育成や考える学習を提案する場合においても,どこまでを射程とするかはむずかしい。いくら学習者が考えた結果でも,学習者によって異なる結果・体系になってもよいとするわけにはいかないであろう。(P.102)

つまり、「学校文法」という枠組みを教えなければいけない以上、生徒に自由に活動をさせたけど、知識としてはさっぱり統一感がなくバラバラですということでは困ってしまう。例えば、高校入試の問題への対応*2や高校での文語文法との整合性の問題など学校文法自体が「既成事実」として成り立ってしまっているという制約をどう考えるかを無視できない。

また、「アクティブ・ラーニング」の方向から考えても、何となく言葉を集めてきて「面白い」と活動しただけでよいのかという問題はある。なぜなら、次期学習指導要領で述べられている「アクティブ・ラーニング」の視点とは、「深い学び」と切り離して論じることはできない。

また、溝上慎一が主張するアクティブラーニングの「トランジション課題の解決」という観点は、そのような活動だけの文法教育ではまったくないだろう。

はたして、「なんとなく言葉を調べてみたら面白い」ということが、「社会に開かれた」ということと切って話すことのできない「アクティブ・ラーニング」として必要十分なのかということは疑問だ。というか、端的に言って「活動あって学びなし」の典型に陥っていると言えるのではないかと思う。

21世紀スキルと文法教育という観点について

今回の特集の「提言」として森篤嗣先生が「三つの要素を意識して「能動的」に取り組む」というタイトルで、文法教育と21世紀スキルを結びつけて論じている。

この論考は、上で書いたような「活動あって学びなし」の文法教育には陥らないように注意深く書かれている。

この提言では「アクティブ・ラーニングを取り入れた文法の授業づくりとして、日常生活における知識活用型の授業という点を強調」(P.71)というように、まさに実際に言葉がどのように使われるのかということについて「貼り紙の言葉の働き」を例に挙げて上手く説明している。

元々、森先生は日本語教育(日本語非母語話者に日本語を教える)やコミュニケーションに近い内容について研究されている方である*3ので、まさにそのようなご研究の内容を上手く紹介するような「提言」になっている。「文法の授業らしくないかもしれない」と「提言」の中で森先生が述べているように、「文法は覚えるものでしょう?」というイメージを変えるのに非常に刺激的な内容だ。

それぞれの実践例については…

そのようなスリリングな「提言」に対して、それぞれの実践例の報告が上がっているが、この「実践」の内容が「提言」で述べられている実践によく似ているにもかかわらず、内実としては結構色々と危ういように見える。

小野桂先生の「「具体的な言語操作」と「方法知の獲得」を位置付けた授業づくり」という小学校の実践については主語の扱いなどにちょっとひっかかることはあるんだけど、どうしても基本的な知識を伝えることが中心となるのであれば、この辺りが妥当なのかなぁという印象。

中学校の実践についてはちょっと問題が大きくなってくる。

一つ目の松原洋子先生の「一分間のミニ敬語劇づくり―わかったつもりを打破する、生きた敬語の使い手をめざして」については、敬語を知識として教え込めばよいという観点を超えていく観点から作られている点はよいと思うが、「生きた」文脈が近くなったために、「劇づくり」での「敬語」の扱い方がかなり気になる。

ある意味で「敬語」が文法の授業の問題として典型的なのだが、文法を教室で教えると「形式」についての知識と「運用」についての知識が離れており、この活動や指導は何を教えているのかということが迷子になりやすい。

この「劇づくり」の実践だと、単純な「尊敬語と謙譲語の取り違え」という「形式」に関するレベルのことと「目上の人がいるときに改まった表現を使う」「敬語の有無が距離を表してしまう」というような「運用」に関するレベルのこと*4が不明確になりやすいし、実際、この実践報告では整理されていない。

だから、「言語生活に活用できる」とあるが、その「活用」とはかなり距離のある方法のように感じられてしまう。

本当は敬語についてはもっといいたいことはあるけど、自重しよう……。前に書いた 

www.s-locarno.com

を少しごらんください…。もしくはまた今度書こう…。

三つ目の三國大輔先生の「言語運用の場で有用性を実感できる文法学習を目指して」では「ら抜き言葉」を題材にして話し合う授業が提案されている。

しかし、「ら抜き言葉」がなぜ起こるかということを中学生に説明させるのはやや難しいし、「ら抜き言葉」についての説明は決して定説があるわけではない。例えば

linguistics.g.hatena.ne.jp

とid:dlit先生がまとめられているように、様々な可能性がある。それだけに、中学生に説明させ、様々な意見が出てきたときに教員が受け答えができるかという点については難しいと言わざるを得ないし、教員のわかっている範囲で答えるのであればそれはただの誘導でしかない。

最近はネットなどに子どもたちが触れていることを考えると、あまり根拠のない俗説などにひっかかる可能性もあるわけだし、それに対してどうして違うのかという説明が教員ができるかという問題も重い。

例えば、伊坂淳一(2015)『新ここからはじまる日本語学』で「ら抜き言葉」について「考えられる」「試みられる」「捕まえられる」については「ら抜き」が起きないことを指摘している(P.6)が、今回の実践報告で説明されていた「-eruで可能動詞化している」という説明で説明しきれない。このような例は決して珍しくないのである。

とはいうものの、「ら抜き言葉との付き合い方を考える」というような方向に進めていくような「日常生活でどのように使うのか」ということに力点を置いて、内省をしてみたりアンケートを取ってみたりという授業展開は面白いと思う。

ただ、このような授業展開を見ていつも悩むのが、皮肉なことだけど今回の『教育科学国語教育』でテーマになっている「カリキュラムマネジメント」の観点だ。結局、単発では面白い内容であるし、言語生活者としてこどもを指導していくという観点は面白いが、それが他の単元にどのようにつながるのかということや、これだけ大掛かりになってしまうと年間の指導時数との関連が問題になってくる。

文法を丁寧にやれば読解につながるのかということについては、伊坂(2002)は「文法は実際に読解に役立つのか」「読解に文法を役立てる必要があるのか」と述べている*5ように、自分もすぐに役に立つのかということは疑問であるし、他の資質・能力との関係で考える必要があるように思う。

高校の実践についてはカタカナが多いなぁと思いました。

まとめ

何を目標にしたいかが難しいよね、文法。

結局、いろいろな縛りを考えてしまうと、あまり大きな単元を起こさないで、教えてしまったほうが全体としてはいいかもしれないという選択肢が出てきてしまう。

考える観点としては先に挙げた、森山ほかの次のような指摘を踏まえておきたい。

国語科の学校文法に対する批判は,内容に関する批判と学習方法についての批判に大別できるがこれらの問題点は一方のみを解決すればよいのではなく,母語話者のための文法教育という観点から両者の関係を踏まえて考える必要がある。(中略)日本語文法を新しい観点から勉強してきた者が学校文法を見直すと,すぐにその古さと問題点が見えてくる。(中略)学校文法にもそれなりの論理はあり,その論理に従って日本語という言語の特性を見ていく点で,意義はある。学説史的にも一定の展開をふまえている。また,現実に学校文法での考え方やその用語は現実に社会生活上いろいろなところに根を下ろしているということも無視出来ない。(P.71)

学校の現場に出て思うが、「何が学校の現場には必要か」という整理と「一方で変えなければいけないことは何か」ということに対する問題意識の両方が共有されてこないと今の状況から文法が見直されていくことは難しいかなぁと思う。

補足:学校文法と日本語研究について

国語の教員は案外文法に弱い……というか文法まで手が回らないであっぷあっぷしている一方で、日本語学の専門家が学校文法について提言していることは少なくない。

例えば

CiNii 論文 -  国語教育と日本語研究の新しい関り方 : 相互支援の関係に向けて ; 趣旨説明(パネルディスカッション)

など、全国大学国語教育学会で日本語学や日本語教育の研究者がコメントを述べていたのは今でも覚えているくらいに面白かったです。

残念ながら、その時の面白い話が自分の半径二メートルに伝わってきていないのですが…。

*1:例えば:秋田喜代美ほか(2015)「メタ文法能力育成をめざしたカリキュラム開発 : 実践と教材開発を通したメタ文法カリキュラムの展望」

*2:安部朋世 (2002)「国語科教育における『文法教育』の在り方」『月刊国語教育』260 東京法令出版など。

*3:中高向けの論文としては「 日本語教育の方法を応用した話し言葉教育の試み: ロールプレイを用いた高等学校国語科の授業」が面白いかな。

*4:たとえば、敬語に関して言えば、近年でいえば「ポライトネス」の観点は必要であろう。ブラウン&レビンソン(1987)『ポライトネス 言語使用における、ある普遍現象 Politeness:Some Universals in Language Usage』や浦滝真人(2005)『日本の敬語論 ポライトネス理論からの再検討』などを参照。

*5:伊坂淳一(2002)「日本語研究から国語教育へ 文章」『日本語学』21─5 明治書院 pp.45ー52

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