一年の授業のまとめを目指して生徒は活動中。
子どもたちの活動の輪の中に入れないで手持ち無沙汰に時間を持て余しているときに*1、どうしたら子どもたちがストレスなく向き合うことができるのかなぁということを考えていた。
この一年間の活動を振り返ると色々見えてくるものがあるなぁ
贅沢な時間の使い方が必要だ
とにかく一番大切なこととしては「十分な時間を生徒に与えること」に尽きる。その「十分さ」というのが傍から見れば「贅沢」にしか、一歩間違えれば「無駄」にしか見えないようなくらいに時間を子どもたちに渡さなければダメだと感じる。
つまり、宿題でどうにかすることを極力排して、授業の中できちんと考えさせたり活動させたりすることを続けなければいけない。
もちろん、ものによっては自宅で十分に練ってきたものを、話し合いの中で組み立てていき、よりよいものを仕上げるというような過程を踏ませたほうがいい場合もあるけど、根本的には授業内で時間をかけないと質が上がることは難しい。
その理由としては、第一に「子どもたちが忙しい」ということが大きい。国語の授業だけならまだしも、それぞれの教科から「ちょっとした」課題が降り積もることによって、子どもたちの可処分時間がどんどん削られていく。そもそも部活動で二時間も三時間も放課後を浪費してしまうのだから、一日のうちで子どもたちが自由にできる時間はほとんどないということを理解しておくべきだろう。
第二に、一人だけで準備をして来られるくらいの学力であるのであれば、その単元の目標の設定が間違っている。一人で問題なくできていることを教室で時間をかけてやる意味は、細かい話を抜きにすれば、ほとんどない。今すぐにはできないようなことを対話であったり教員の支援であったりを受けることによってどうにかたどり着けるようなことをやることに意味があるだろう。雑な言い方をすればヴィゴツキーの発達の最近接領域の話のようなイメージのことである。
第三に、生徒のモチベーションはフィードバックと表裏一体の部分がある。適切なフィードバックは適切なタイミングで返さなければいけない。対話や協働的な作業においてもっとも適切なタイミングは、その活動が起こっているその場でのフィードバックだろう。特に、よりよいものを仕上げていきたいという我慢強いモチベーションの維持のためには、作品が出来上がってくる過程に十分なフィードバックを返したい。
ついでにいうと、フィードバックを随時にしようと思うと、一回のフィードバックは軽くなる。しかし、その一回のフィードバックが軽いほうが結果的に生徒には負担感が少なくて、ちゃんと伝わって反映されるような感覚はある。最後にまとめてフィードバックしてもそのフィードバックを活かす場面がない。
十分な素材を持っているかどうか
大村はまなども言っているけど「言いたいことや書きたいことがあれば子どもいくらでも動く」のだ。
だから、結局、活動が滞ったり出来上がってくる作品の質が悪い場合は、子どもの中に切実な思いがないということが大きいのだろうと感じる。
だから、何かを書かせたい、何かを話し合わせたいというのであれば十分に子どもの中に話したいことや書きたいことを持たせてやる……これは大村はまが言っているね。
普通の学校であればどうしたって教科書に縛られざるを得ない部分はある。
教科書の文章は、まあ面白くないだとか選ばれている意味が分からないだとか言われることは少なくはないのだけど、よくよく突き詰めていけばバランスはそれほど悪いものでもない。
精読していこうとするからつまらなくなるわけで、その文章と子どもをどう向き合わせれば、子どもの中に言いたいことや書きたいことが生まれるのかという点から考えたほうがよい気がしている。
また、そういう観点から日常の様々な文章を探していると、子どもに手渡せば、子どもが何か言いたくなるのではないかというものは、世の中に少なくないんじゃないかなぁと感じている。何がというよりも、そのクラスの様子に合わせて…という感じだが。
うーん、はまっぽいこと言っている気がする。
思考を外化する過程が見えているか
さらに子どもの中に自分が考えたことを形としてあらわしていく方法があるかないかということは重要である。
色々なことを考えているとしても、それをきちんと言葉にできないで流れてしまう子どもは少なからずいるし、どう考えていいかわからないから段々と飽きてくる。
だからこそ、色々なパターンの中から今の生徒に上手く当てはまる方法を示す必要がある。
その一つの工夫がノートにどうやって書き出したらいいかという支援であったり、バタフライチャートのような思考ツールを与えて考えさせることであったり、書き出しの言葉を与えて続きを考えさせてみたりすることなど、どこにボトルネックがあるのかを考えて頭の中に渦巻いている考えを引き出す手立てを示してあげたい。
逆に言えば、思考が明晰に動いている生徒に余計なことをしないのも必要だろう。どうしても、色々なことを与えたいと教員は感じてしまう。でも、それがボトルネックになってしまう子どももいるだろう。
緩やかに必要なことを示すという雰囲気を持ちながらも、干渉しないことだろうなぁと感じる。
そしてどれだけ我慢できるか
そして最後には生徒の反応が悪くてもしばらくは我慢して手を出さないことも必要なのだろうと。
どうしても活動や反応が鈍いとあれこれと声をかけたり手を出したりしたくなるのだが、そこを堪えることも必要なのだろう。
最初の反応が鈍くても時間がたって思考が煮詰まってきたときに、急に堰を切ったように活動が動き出すことがある。
逆にいくら教員が騒いで手を出しても結果的に考えないで形だけ整えた作品が出来上がってしまうことのほうが苦しい。
でも、だからといって、何もしないで沈黙する教室にいるのはいたたまれないものである(笑)
明日からも
きっと子どもたちが必要に応じて勝手に学んでいくことでしょう。
何もしないで、教員は何をしていようか。
*1:冗談である。ちゃんと見取っています。