今年度の授業が終わり始める。今日で一クラスがおしまい。もう来週も早いうちに今年度が終了です。
やっと終わったというような感覚。密度が高い……というほど授業のことばかりに集中できていない気もするが、体調が悪い中、悪化させずに乗り切ったとも思う。
それもこれも肩の力を抜いているという側面が大きいとは思うけど、なかなかこの肩の力の抜き方というのは分からない。
必要なことは教えていきたい
手抜きにならないで肩の力を抜くにはどうしたらいいかは今年度の一つのテーマだった。
自分も今の立場は今年が一年目の新人なんです……だれも信用してくれないけど。
意識して余計な仕事をしないことや早く家に帰ることや授業に根を詰めすぎないことに注意していた。どうしたって、授業はやりだすときりがなくなるからね……。
アクティブラーニング型の授業になるとどうしても手間はかかる。『学び合い』に振り切るほどの度胸は自分にはない。非常に中途半端な展開になっている気もするが、何とかやりきったかなぁ……という感じ。
の中でも指摘されている「深いアプローチ」は大切にしたかった。
「深いアプローチ」
これまで持っていた知識や経験に考えを関連付けること
パターンや重要な原理を探すこと
根拠を持ち、それを結論に関連付けること
論理や議論を注意深く、批判的に検討すること
学びながら成長していることを自覚的に理解すること コース内容に積極的に関心を持つこと
このあたりの観点は常に単元の中で何かしら組み込まれているように意識していたのだけど、まあ、マンネリするよね、気を付けないと。
決して、アクティブ・ラーニングをやりたっかわけではなく、単純に「深いアプローチ」を動かしていくときに、協働的な授業を展開するしかなかったという感覚である。
アクティブラーニング型の授業は
アクティブラーニング型の授業は傍から見れば授業は手抜きに見える。
まあ、実際、何もしないし、50分話し続けるよりははるかに楽なんだけど、神経は使う。何よりも適当な題材を投げると授業が成り立たなくなる。
でも、本当に考える意味のあることを投げることができれば、こちらが話すよりもよほど「深いアプローチ」の学びが生成されるのが分かる。
でもね、その「深さ」が全く理解されないことも少なくない。結局、いくら「アプローチ」の方法は深いとしても、結果的にその答えが「誤り」であったり「表面的」であったりするときに、「深まっていない」と反撃されてしまうからだ。
個人的にはコンテンツに対するこだわりはほとんどない。というか、自分は文学畑の人間ではないから、別に夏目漱石だろうと鎌池和馬だろうと面白ければいいし、その時々の生徒にとって意味のある資料になるのであればそれでよいと思っている。別に高尚な読み方は文学部にいってやってくれればいいし、俺には教えられるとは思わない。
だけど、一方で「問いを立てる」「関連付けて考える」「ノートにまとめる」などの一つ一つの経験は、コンテンツ以上に意味のあることだと思える。コンピテンシーという言い方になるのだけど、結局、コンテンツをグダグダやっていてもコンピテンシーにたどり着かないという感覚が強いのだ。
もっとシンプルに
まだ、自分の授業は手間が多すぎると思う。
もっと、自分が楽になるような削ぎ落さないとだめだと思う。
それは、手抜きでもあるが、一方で、きちんと色々なことが見通せるだけのものをつくりたいんです。