ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

「アクティブ・ラーニング」を議論するのは疲れる

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新年度が始まるということもあって、またアクティブ・ラーニングという言葉を巡って議論が盛り上がっている印象があります。

個人的には「言葉遊びはもういいよ…」という気分もあるのですが、Amazonでアクティブ・ラーニングを調べてみると、とてつもない量の本が発売されていることもあり、あまり無視できないのも事実です。

s-locarno.hatenablog.com

こんな記事を書いたのは半年前ですが、その時とはそもそも発売されている本の冊数が違いすぎます(…が、上のリストに付け加えるような本は出てない気もするけど)。

そのアクティブ・ラーニングという語を巡って議論が起こることについて少し思うことがあるのです…。

そもそも思いつくような議論はもう議論されている

大前提として、素人が思いつきで反論できるようなことは、専門家や実践者によって既に随分議論はされていると言っていい。例えば、このブログでも何度も紹介してきているけど、京都大学の溝上慎一先生の次の本は現場の教員でも読みやすい。 

高等学校におけるアクティブラーニング 事例編 (アクティブラーニング・シリーズ)

高等学校におけるアクティブラーニング 事例編 (アクティブラーニング・シリーズ)

 
高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)

高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)

 

もし、お金を出すことも惜しいし時間もないからすぐに結論だけ知りたいというのであれば、溝上慎一先生がアクティブ・ラーニングについて解説しているサイトもある。 

s-locarno.hatenablog.com

溝上慎一の教育論

このサイトは上で紹介した本の内容に近いことが書かれているので、このサイトを読めばかなり背景や「ありきたりな議論」については目を通せる。

だから、本音を言ってしまえば、「何かアクティブ・ラーニングについてごちゃごちゃ言いたいならここに書いてあることくらい読んでから言え」である。

その上での再反論であれば議論の仕方もあるんじゃないかとは思うのだが…。

本題:アクティブ・ラーニングを二項対立で議論するのは妥当か

アクティブ・ラーニングについて議論をしだすと「基礎基本が大切だ」ということと「いや、生きる力が大切だ」ということのどちらかに与して議論しているというような捉え方をされることだ。

このような二項対立で物事を捉えてしまうことを、苫野一徳先生は色々な本で「問いのマジック」と呼んで批判している。 

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 

例えば、上の本では「共通了解」を持ち、議論することの重要性が説かれています。

また、「内容か活動か」という問いの立て方が悪いことについては、 

ディープ・アクティブラーニング

ディープ・アクティブラーニング

 

の中で「双子の誤り」と呼ばれる誤りだと述べられている。

不思議でならないのだけど、「子どもが基礎基本ができなくて構わない」だとか「子どもが社会で役に立たなくても学校の責任じゃない」だとか思っているような人が一生懸命「アクティブ・ラーニングか基礎基本か」というような問いで喧々諤々と議論することはないだろうに、どうして「アクティブ・ラーニング派は基礎基本を蔑ろにしている!」だとか「基礎基本という人は生徒のことを考えていない」だとかいがみ合うのだろうか。

「相手は何も考えていない」というような失礼な前提に立たないで、「相手もこちらの方法のメリットは分かっているはずだ」という前提で議論ができないものか。

ビジョンの違いを共有する必要性

そのような前提に立って議論をしていくのであれば、現状、足りていないものは「どんな子どもを育てたいのか」「どうやって教育し、どんな姿で子どもを送り出したいのか」という「どんな教育をするのか」というビジョンが不足していることに気づくはずだ。

結局、アクティブ・ラーニング派が思っている「よい」教育と反アクティブ・ラーニング派の思っている「よい」教育のイメージが重なるのであれば、協力していくことができる部分も見つかるだろうし、もし反発するのであれば反発を認めたうえで落としどころを探すか、お互いの教育観を鍛えていくほうが生産的だろう。少なくとも「アクティブ・ラーニングやるやつは基礎基本を教えられない酷い教師だ」などと罵って自分のやり方を主張するよりはずっと子どものためになるだろう。

だからこそ、今、苫野先生の各著書やご活動が重要なものだと自分は感じているし、自分も一生懸命学ばないといけないことだと思っている。 

勉強するのは何のため?--僕らの「答え」のつくり方

勉強するのは何のため?--僕らの「答え」のつくり方

 
公教育をイチから考えよう

公教育をイチから考えよう

 
どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)

どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)

 

でも、それって結局、偉そうにここで解説するまでもなく、大学入試改革で「3つのポリシーを掲げよ!」と言っているようなことや「カリキュラム・マネジメントをしろー」と言っているようなことで言われていることと同じなのです。

文科省が現場を知らないからダメだということもよく言われますが、まるっきりの素人でも馬鹿でもないことを認めたうえで議論しないとダメですね。

その上で個人的な意見

ここまで書いて、自分の個人的な体験と偏見に基づいてこの議論について意見を述べるのであれば、「アクティブ・ラーニングを否定する言い方をする人の方が出口に対して無関心であり教育をめぐる状況の変化について勉強不足」という印象だ。

少なくとも苫野先生の意見や溝上先生の意見にきちんと反論できている意見を管見の限り知らない。評価の難しさや時間が足りないことを指摘する論考はあるが、評価できないからやらない時間がないからやらないで済まされるような種類の問題ではないと思われる。

どうしても学校という現場は時間がないため「勉強している暇はない」ということのために、現状維持にバイアスがかかりやすい。また、少なくともこれまでは「基礎基本の学力を身に付けさせていい進学先に送り出す」ことが子どもの幸せと直結しやすかったという事実があるため、そこから考え方を変えることは確かに難しい。

だが、これだけ「アクティブ・ラーニング」という言葉が注目され、多くの本が出版されて専門書でなくても教員が情報にアクセスできるようになった現状において、何も触れないで現状維持をすることは、さすがに怠慢なのではないか。

しかし、一方で、そのような状況を見て、知名度で適当なことをいう人もいるのが話を厄介にしている。 

s-locarno.hatenablog.com

s-locarno.hatenablog.com

大変なのは間違いないけど、学校の外に出るということと色々な本を読み自分自身が勉強するの二点をやっていかないで、イメージで議論するのはそろそろやめなければいけないのではないかな…。

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