今年もそろそろ定番教材の季節です。
高校一年生であれば「羅生門」、高校二年生であれば「山月記」が教科書の配列的に出てくるのがこの時期です。
自分もこれから「山月記」を扱わなければいけないなぁと思っているところです。
いわゆる「定番教材」と呼ばれるものですが、毎回、自分はこの定番教材に苦心しています。
定番教材って難しくありませんか…?
定番教材の好き嫌い
自分は正直、定番教材の扱いは苦手だ。
どうしても「先行研究」の多さに目がくらんで右往左往しているうちに、授業が過ぎていってしまう感じがある。どうせ授業でやるのであれば、できるだけよいものを生徒に手渡したいという気持ちがあると、先行研究の多さに立ちくらみが……。
だからといって、先行研究を見ないふりして自分のオリジナルを繰り出してしまうほど、勇敢な態度にはなれない臆病者なのですよ…。
でも、逆に言えば定番教材については「王道」「邪道」「寄り道」などなど各種先行実験が揃っているので、自分がやってみたいと思う授業をいろいろと探すことができる。
例えば、高校の小説の定番教材については
に一通りカバーされているので、興味ある人は見てみると面白い(質についてはバラつきが…)。
この本の実践が定番教材の王道かと言えばそうではないけど、こんな感じで「定番教材」については多くの実践があるから、授業をしようと思えばすぐにネタは手に入るし大外しはしない安定感はある。
定番教材は面白い…?つまらない…?
授業をやる方にしてみれば「大外しをしない」というだけでもありがたい定番教材ではあるけど、その授業が楽しく面白くなるかは別問題である。
国語の教員からすれば「これくらいは知っていて欲しいよね」と思うからこそ定番教材の呪縛から離れがたい部分はある*1のです。
でも、周りの大人が習っているはずの定番教材について全然覚えてなかったりする様子を見ると、国語の教員の期待するほど世の中は別に定番教材にこだわりはないのかもしれない。……そのくせ「羅生門」をやらないとか言い出すと「羅生門もやらないで国語ってそれでいいの!?」とか株を守るような発言をしてくるので理不尽だ!
話が脇に逸れたけど、定番教材は大人の方の立場からすれば「扱いやすいしやるべきだという世間の圧力もあるし!」という態度で、授業自体はしやすい。
でも、そういう「大人にとって都合の良いもの」は裏を返すと「生徒にとってはつまらない」という結果になりやすい。
例えば、大人が「羅生門」くらいは「まあ、普通に読めるよね!」なんて思っていても、生徒の側からすると古典と大差がないという態度で「羅生門」を読む。
だから、世の中にはこんな本もあるわけで…
内容的には……芥川には勝てませんよね、そりゃ。
だから、言葉が難しくて読みにくいということで、今の生徒にとっては大きなハードルがあるし、さらにそこに題材になっているテーマ自体もなかなか生徒には感覚が掴みにくい部分もある。
大人の期待と子どもの興味関心などと差が大きいと、それだけ扱い方が難しくなる。
なぜ定番教材が苦手なんだろう?
自分は繰り返し言っているけど、定番教材がどうも苦手だ。
とにかく色々なことが目についてしまうだけに右往左往してしまうのだ。そして色々と目移りしているうちに何をしたらいいかわからなくなって、どれも中途半端な感じになってしまい、気分がノラないで授業に臨みがちだ。
どうしても悩むのが、自分の教えている生徒にジャストフィットする単元になるかということを考えると、必ずしも定番教材を読む必要がないんじゃないかという気持ちが強くなってくるのもよくない。
こういうときに自分がちゃんと文学を勉強しおけば、少しは意味のあることを説けたのかもしれないと思うと自分の怠慢を反省するのだけど、なかなか「どうしてこの教材を読むのか」ということを強気に言い切れない。
そもそもとして「なぜ学校で小説を読まなければいけないのか」ということに対してはっきりとした答えがないのも原因かもしれない。たとえば
で渡辺久暢先生が「どうして小説を読むのか」を生徒に自覚化させていくような授業を展開をしていく様子や「読むとはこういうことだ」という明確な教育観をもって指導されているのに比して、自分がまったく見通しのないことが悪いんだろうなぁ…とも感じる。
定番教材とどうやって向き合いますか?
安定した授業をやることもできるし一方でどうにもならないくらい頭を抱えてしまう定番教材。どうやって扱っていくのが、生徒にとってはベターなのでしょう?
*1:定番教材が定番教材になっていった過程についての研究はたくさんあります。