※写真は学会イメージ
仕事もあるので途中で帰らざるを得なかったのですけどね…。
重要なことを見直す機会となりました。
日々の実践を重ねることの意味
この大会はよくも悪くも現場の実践についての研究発表だ。
だから非常に教員の感覚に合っていると言えるし、文脈が分からない人から見れば何がいいたいのか分からないという面もあるかもしれない。
日々の実践の積み重ねには、それぞれの教員が対面している子どもたちがいるということを強く意識させられる。子どもたちの実態を丁寧に捉えて説明している発表には好感が持てるし、それが素朴であることに、また教室の真実があるように感じる。
どうしても、子どもの実態に即してどういう形で学びに向かわせられるのかということを考えていくと、全国大会で発表されるような「派手な」ことにはならない。丁寧に今の子どもの実態を捉えていけば、長い目で変化を見続ける度量は必要だろうなぁと思う。
その意味では本日は(名前は伏せますが)埼玉の中学校の読書教育に関する発表が丁寧な実践で好感を持てました。目録を利用して生徒を年間通じて自由読書に導いていくという単元は子どもの生活が見えて、丁寧に指導されているなぁという印象でした。
自分もリーディングワークショップをやっていたので、年間を通じた読書指導という点については興味を持ちました。自分もこのくらい年間を通して丁寧にやれればよかったかなぁ…と反省。
教員が勉強していることに満足しては…
授業作りって教員が一生懸命になれば、どこまでよいものができる……ということは間違いないんです。
資料を丁寧に作り、てびきを充実させ、生徒にこまめに働きかけていけば、つけたい力から逆算して生徒をゴールまで導いていける……のは程度の差があれ、教員がやれることだ。実際、一生懸命に考えて作った授業が生徒の心を打って、一生懸命になってくれることは嬉しいことだし、してやったりという気分にだってなる。
「つけたい力」というものを見とるのは教員の役割であるし、生徒だけでは考えないようなことを教えることも役割ではある。
でも、それでも、「理屈」が先に立って「こうあるべきだ」という発想から授業が組み立てられることと「子どもの実態」から「どんな学びが生まれるか」を考えて伸ばそうとする授業を組み立てるのかでは全然、違う話である。
生徒は大人の肚を読む。先生が一生懸命にやっている単元なら、生徒だって一生懸命に先生の期待に沿うように授業を受けるし、活動をする。
振り返りを書かせれば、教員の期待に応えようとして記述を書く。だって、そう書いたほうがよい成績をもらえるのもわかっているから。
でも……そういう授業をふと一歩引いてみたときに、感じてしまうのが「不自然さ」である。
その不自然さを見ないふりしていくことは出来る。でも、定番教材を読ませるということ一つとっても、生徒には必然性のないことであるし、その必然性のないことを目先だけ変えて興味を持たせても、それが本当に子どもの切実な学びなのか。
このあたりは自分が悩んでいながらも棚上げにしていた問題そのものなんだよね……。
立派な単元を立てて、生徒を何とかごまかして引っ張って読ませていこうとするけど、その読ませていこうと策を弄している。でも、それについて子どもの実態にあっていないし、切実な課題であるかは怪しい。
生徒にとって意味のある「実の場」としての学び……言葉遊びみたいなもんだと聞こえるかもしれないけど、自分の育ちがそういう文脈に置かれている場所にいたから、皮膚感覚としてその違和感を無視できない。
どうしたもんかなぁ…