ついに授業の取り組みの甘さを見ているのにも我慢の限界に。
結局、自分の計画が悪いんだけどね……。
考えていないものを誤魔化せない
見過ごそうと思えば、見過ごせるんだけどね…。実際、ちゃんと「活動は」しているようには見えるし、個別に指名すればそれなりにまとまったことはいうだろうし。
でも、考えていないものをそのまま見過ごすことが、自分の方が我慢できなくなってしまった。
適当なことを言っていれば、その場をやり過ごせてしまうということを教えてしまうのは……どうもね。
能力と課題が見合っていないのか
どうしてこんな結果になったのかと考えてみるが、第一には「読みたくない」ということが一番の理由なんだろうと思う。
「山月記」なんてとにかく漢字が多いし、言葉遣いが馴染みがないし、読んでいても面白くないし、すぐに何かが分かるというものでもない。
そんな話を読んでいられないし、読みたくもあまりない。
彼らの能力を考えたときに、「山月記」が特別に難しいとは思わないし、出している課題も特別に難しいものではないし、手引きも支援もしているだけに、これ以上は手出しをしては、自分が誘導しているだけの活動で、どこにも主体性も自ら考えることもない。
結局、課題に対して反応してもらえないのは、その課題について能力が足りるか、足りないかという問題ではなく、その文章とよい出会い方をできなかったというだけだ。
つまり、自分の出合せ方が悪かったのだ。必然性がないのに「読め」というから、生徒にとっては苦行にしかならない。
一体、高校の「実の場」ってなんだよ…
わかっているけど、どうしようもないから愚痴るけど、現状の大学入試のシステムや生徒の置かれている忙しさや学校の指導方針だとかを考えたときに、国語教育界隈の言っている「実の場」だとか「真正の課題」だとかの概念が、生徒にはむなしく響くのがやっていてなかなかつらい。
自分の見立ての悪さがあるのだけど、それを差っ引いても、ラクして合格をしたい、ラクするなら多少成績が悪くてもよい、という損得勘定しているのがありありと分かるのが、どうしたものか……なかなかに、困るよ。