ライティングの高大接続?高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ
- 作者: 渡辺哲司,島田康行
- 出版社/メーカー: ひつじ書房
- 発売日: 2017/07/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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自分にとってなかなかエキサイティングな一冊だった。
タイトルの通り「高校」と「大学」における「書くこと」の違いを丁寧に検討し、高大接続をスムーズに行っていこうというコンセプトの本だ。
そのため、高校の国語における「書くこと」の学習内容がどのように行われているのかを検討し、その内容が大学でのレポート作成とどのようにつながっているかを分析している。
そして、その内容が高校の教員にとっては非常に耳が痛い内容になっているのだ。
目次を読むだけで…
本書の検討の仕方は「国語科教育」界隈の問題意識とは少し異なる角度から行われている。たとえば「高校におけるライティング学習の経験はどれほどあるか」という章では「実は「少ない」ことを示すデータが少ない」ということから問いを立てて、大学生への聞き取り調査を行い、データを示そうとしている。
だからこそ、自分のような現場の教員にとっては疑うことなかった自明なことが問い直されていたり、盲点になっていたことが確かめられたりと非常にエキサイティングなのだ。
いかに目次を示しておくけど、「書くこと」に興味がある人であれば、以下の目次を見るだけで内容が気になるはずだ(高校に関わる部分だけ、項目タイトルまで記す)。
まえがき
序章 本書のなりたちとつくり1.書名が意味すること
2.テーマ、主張、著作の意義
3.構成の単位は”問い”
第I部 高校まで
第1章 高校におけるライティング学習の経験はどれほどあるか1.実は「少ない」ことを示すデータがない
2.中・高時代の「書く」学習経験は
3.高校国語での「書く」経験は
4.大学入学直後のレポート数に比べて
第2章 大学新入生は高校「国語」で何を学んでくるのか1.課題としての「書くこと」
2.高校「国語」では何が学ばれたのか―大学新入生600名調査―
3.調査の結果から
第3章 高校ではどのようなライティング技術が教えられるか(1)―レポートとして1.高校と大学のレポートは異なる?
2.何をどのように調べたか
3.どんな結果が得られたか
4.結果からわかること
第4章 高校ではどのようなライティング技術が教えられるか(2)―意見文、小論文ほか「書くこと」一般として1.レポート以外にも目を向ける必要あり
2.高校の国語教科書で教えられること
3.結果からわかること
4.高校までに教えられないライティング技術は?
第5章 「言語活動の充実」によって高校までの「書く」学習の機会は増える(た)か1.「書く」学習も充実する、とは限らない
2.何をどのように調べたか
3.どんな結果が得られたか
4.結果からわかること
第6章 高大接続改革で高校「国語」はどう変わるのか
第II部 入試から大学へ
第7章 大学入試「国語」はどう変わるのか
第8章 国立教育政策研究所「特定の課題に関する調査(論理的な思考)」は何を示したか
第9章 大学におけるライティング指導はどのようになされているか
第10章 大学新入生にとってレポートとは―認識のズレと苦労のメカニズム
第11章 評価の目と書く腕前はどのような関係にあるか
第12章 なぜ大学で「パラグラフ」を教えなければならないか
終章 教室で実践する高大接続
ね、なかなか刺激的でしょう?実際に内容を読んでみると、内容も高校の国語が「読むこと」に偏ってしまっている現実が突き付けられるし、仮に「書くこと」を行っていたとしても、教科書ベースでは不十分さが目立つということが分かってしまう。
特に「言語活動の充実」が指導要領に移行後の大学生を対象にした調査では「書くこと」の増減に影響を与えていないといわれると、その世代を教えていた人間としては苦笑せざるを得ない。
もちろん、本書でも述べられているように母集団の偏りやサンプルの少なさがあるため、日本全国の状況を正確に把握できているという早合点をするわけにいかない。しかし、現場の教員の感覚としては、本書で述べられていることに近いものがある。
上記の結果(引用者注:大学生への調査の結果、高校の「書くこと」の経験が0回であったと回答した割合が最大であったこと)は、学生による記憶・回顧の不確かさを差し引いても、驚くべきものではないだろうか。(中略)その点について島田は「この結果に驚かないのは『国語』の教員だけかもしれない」と含みのあるコメントをしている。(P.15)
図星を突かれた気がした……。高校の国語で「書くこと」が不毛地帯になっていることは国語の教員には痛いほどわかっていることであるし、その割に「仕方ないよね」で済ませている人が多いものね…。
個人的に興味深かったこと
そんな刺激的な本書ですが、特に自分が興味を惹かれたのは以下の二点です。
高校までに教えられないライティング技術
全く教えていないという意味ではなく、大学でのレポートに取り組むレベルからすれば不十分であるという意味で、以下の四点が本書では指摘されている。
- 文章を「組み立てる」技術
- 引用の具体的技術
- 推敲の具体的技術
- 再帰的な文章作成
順に内容を説明しておくと、1.はパラグラフ・ライティングのことであり、特にパラグラフ内部の構成の不十分さを指摘している。2.は学術論文を書く際の厳密な形式での引用や書誌情報の示し方の指導が不十分であるということの指摘である。3.は推敲の指導において具体的な観点の少なさや相互評価後の書きなおしの取り組みの少なさの指摘である。
そして、自分がもっとも強く共感したのが「4.再帰的な文章作成」の指導不足についてだ。「再帰的な文章作成」とは、本書の言葉を借りるなら「作文の各段階で往来(行きつ戻りつ)する技術あるいは習慣のことだ」(P.57)という。
作文を「行きつ戻りつ」することを教えていない、あるいは不十分であるという指摘は、自分にとっても非常に気になっていたことだ。自分としては「行きつ戻りつ」できないことで、つまりは教員の「都合」に合わせて進度や書くタイミングが決められてしまうことで、「書くこと」自体がつまらなくなっていることに問題を感じている。
高校の教室では、特に理系の教室では、「書くこと」に割ける時間が非常に少ないという現実がある。だから、何かを書かせようというしても、授業で時間を取ることが難しくなりがちだし、つい宿題に丸投げしがちである。そうなってしあうと子どもたちは一回文字を埋めればそれいじょう「行きつ戻りつ」なんてしないわけです。
本書でも「作文の往来性/再帰性は、ライティングの苦しみの“もと”でもある」(P.58)と述べるように、生徒には負担の大きいことだ。でも、その大変さがよいものを作ろうという態度にもつながっているし、書くことの楽しみそのものでもあると思っている。
子どもたちの文章を見る目は信頼できるか
この文章で重要だと感じたもう一つのが「評価の目と書く腕前はどのような関係にあるか」ということについて述べた第11章だ。
ここで述べられていることの結論はおおざっぱに言ってしまえば「学生は十分によい文章を判断する目がある」ということと「自分の書いたものに対する自己評価が低いことで書くことに苦手意識を持っている」ということの二点だ。
「自己評価の低さ」ということは高校でもやはり同じことを感じる。二言目には「書くことが苦手です」「書くことは嫌い」という言葉を耳にする。非常に心苦しいものであるが、なかなか払しょくが難しい。自信を失わせるようなことをしてしまっているのでないかと感じる。
また、高校の教員が意外と認めないだろうと思うのが子どもに「よい文章を判断する目がある」ということだろう。もちろん、大学生と高校生まででは違いがあるかもしれない。しかし、学習者自身で「よい文章かを判断できる」ことができる示されていることは、もっと学習者同士の相互評価を!という最近の流れを補強するような分析であるように思う。教員が「朱を入れる」ような一方的な指導だけが作文指導ではないという当たり前のことを少なくとも小論文指導に終始しがちな高校では気にかけるべきだろう。
ライティング・ワークショップの可能性の豊かさ
だからこそ自分は去年「書くこと」のプロセスを生徒に委ねて、「書く」楽しみを発見してもらいたくて「ライティングワークショップ」を実践しようと思ったのだ。
書く回数も増えれば、再帰的な文章作成も必ず行われる。生徒の書くことのプロセスを豊かにすることができるはずだと思っている。
ライティングワークショップを高校で実践するハードルは意外と高い。二言目には「大学入試」だと言われるからね……。そんな状況でライティングワークショップを行うのであれば、教える側に貫徹した覚悟と理論武装が必要だろうと思う。
その意味だと本書の示唆する「高校の書くことの大学への繋がらなさ」を根拠にライティングワークショップの可能性を考えるのは面白いかもしれない。
本書は「レポート」のライティング技術についてが中心と書かれているので、物語や詩の創作については述べられていない。
もちろん、そのような文章を本書は軽んじているわけではない。しかし、国語の書くことは「論じる」だけではないし、「論じる」以外の書くことにも十分に意味があると自分は思っている。だから、ライティングワークショップの可能性を考えていきたいなぁと強く思う。
なお、本書を読むにあたっては前に紹介した以下の本も併せて読むとよいでしょう。
ぜひ、読んでもらいたい一冊です。