本日は予備校の研究会に出張。受験指導に関する情報収集です。
普段、やれ「主体的な学び」だとか、やれ「アクティブラーニング」だとか言っているクセに予備校に頼って、受験受験とやっているのは一貫性がないようで非常に滑稽に思われるかもしれない。
日本の教育をダメにしているのは教育「産業」だと言っているような自分でもこうして受験指導に関して情報収集し、生徒を「勝てる」ようにしなければいけないのが、とても偏狭で情けない感じもする。
受験に対するニーズ
自己弁護にしかならないけど、自分がこうして自由に授業をやるためには、各方面からある程度「この人の授業なら任せられる」という信頼は必要だ。少なくとも反旗を翻されるような信頼感ではダメである。
その意味で、自分が自由に授業をやろうと思ったら、周囲が思うような「学力」に対する安心感を保障しなければいけない。
悲しきかな、そういうニーズが求められる場所に自分がいるのである。
それが嫌になるというのであれば職場を移ればいいと思うものの、でも、どこに行っても受験は避けて通れない。それならば腹を決めてきちんと的確な指導をしたほうが、幾分かはマシなんだろうと思う。
情報量が違いすぎる
研究会に出てみると思うが、受験に関する情報については、予備校に学校は勝ちようがない。そもそも偏差値による大学と生徒の格付けは、予備校が作り上げて維持しているもので、そのシステムに学校の方が乗ってしまっては、情報量で予備校に勝てる訳がない。
でも、「そういうもの」に対して一介の教員が反対を唱えたところで、どうにかなるものでもなく、結局「そういうもの」に従うしかない。
「そういう」システムで動いているものに挑戦せざるを得ない生徒たちに、「あんなものはダメだ」なんて言って指導もしないで放り出したら、それはそれで無責任だと思わざるを得ない。
「勉強」をすること自体は悪いことではない。追い込まれないとやれないことだってある。でも、ただ、合格するために効率的な情報を集めて、ペーパーを解くために必要なことしかやらないとなってくるは話がまた違ってくる。
でもなぁ…やっぱり授業をやっていても、入試に役に立つかどうか、を切り離して考えている生徒は殆どいないだろうなぁ……。この誤魔化し方が自分には面白くはない。
何のための学校か
学校を卒業させ、次の進学先に押し付けることが自分の仕事ではないと思っている。
そりゃあ、生徒は卒業してしまえば、あの三年間はよかったとよい思い出として言ってくれるだろうさ。
でも、一人で参考書でも読んで勉強したほうが効率的だと思うような程度のことを三年間もダラダラと教え込めない教え込みをして時間を浪費してしまうことで、生徒ができるようになったかもしれないことをできないままにしてしまうことの不作為の方が恐ろしいのである。
「かもしれない」程度の未来予測は、個人的な主義主張にしかならない。そうなってくると、自己矛盾するようだけど、受験指導くらいできなければ、偉そうに新しいことを言う出すことも難しい。
自分は何もできない、考えない生徒を大学に教えつけるために授業をしているのではない。何かをしたい、何かをやれる可能性を持った生徒を育てることが目的であるし、大学入試くらいで困らせないために、二刀流を続けるのだ。