ありていに言えば昨日の続きである。
それに色々と目についたものがあって考えざるを得なくなったのです。
知識のあり方をめぐって
アクティブラーニングを推進しようとする流れに対して、決まりきった文句で「いや、その前に知識が必要だ」ということや「本当の教養のためには詰め込みであらゆる知識を身に付けないとダメだ」ということをいう人は少なくない。
まあ、そもそもの学力観が大きく異なるから*1、その価値観をすり合わせようとするのはかなり難しい。「自主性」か「教え込み」かみたいな二項対立のどちらが正しいかを決着つけるのは結局宗教戦争になるので、現実問題としては折り合いをつけながらやっていくことくらいしかできない。
そもそも二項対立で捉えることが正しくない。
結局、両方やらなければダメである。でも、アクティブラーニングの議論をめぐっては、なぜかどちらか一方を選択しなければいけないかのような空気が(笑)まあ、「両方とも大切だよね」というときの教員の考えが「基礎をやったらアクティブラーニング」みたいなことを考えがちであるので、根本的に今までの一斉授業ではダメだという前提で進んでいく議論に教員が態度を硬化させるのもわかる(笑)でも、やっぱり「基礎ができてから」なんて悠長なことをいっているのは感覚が世の中からズレている。
なぜ「詰め込み」たがるのか
なぜ、こうも「詰め込み」をやりたがる人は教員に限らず、教員や学校以外の人々からも「ちゃんと知識を教え込め」という圧力がかかる。しかし、「知識を教えろ」とはいうけど、その「知識」の中身についてはあまり議論されない。
まあ、「教科書」に書いてあることや入試にでることのイメージなのだろうけど、まあ、そのくらいの知識であるなら覚えておいても損はないので、教えること自体には文句はあまりない。しかし、知識を「教えた」ことで、その知識を覚えているかどうかを問題にして、覚えていなければダメだという話になってくると、まあ、厄介よね。
深入りしないでおこう……。
でも、前提として無視してはいけないこととしては、ICTがこれだけ発達している以上、教科書に書いてある程度のことであれば、調べればわかる。本当に覚えていなければ、教えたことにならない?勉強不足になる?まあ、問い直さなければいけないことでしょう。
しかし、どうして学校や教員ばかりがICTの発達と無関係に教科書を教え込むことだけを教育と呼んでいることができようか。
どうしても「教える」ということを「教え込む」に置き換えないと気が済まない人がいるのはなぜだろう?やはり、「教える」側の都合なのではないか。覚えているということも「教えた」ということも、表面的には量で簡単に評価できる。教えたのにできないとしたら、それは教えた側の責任ではなく教えられた側の責任に出来るし、「覚えるべき知識」というものを想定するなら、何をどこまで教えるのかということについていちいち教える側が責任を持たなくても良くなる。
「教え込む」とういことが子どもよりも随分、大人にとって都合の用意ことに思える。
最後は委ねるしかない
何を教えるのか、何のための学校か。
大人の都合で決めないのだとしたら、最後は生徒に委ねるしかないのではないか。
でも、最低限の知識は教えなければいけないのは確かだ。
委ねたうえで知識くらいなら覚えさせる。
言葉にすれば簡単である。
*1:おおざっぱに言ってしまうなら「要素主義」に対して「社会構成主義」とかいったりね。