九月の授業をそろそろと始めています。
だいたいやることのイメージが出来てはいるので、関連資料を読み改めているような感じです。
そんな中、教員用の指導書にも目を通していたわけですが、そこでちょっとした違和感に気づいてしまったのです。
一応、「言語活動の充実」を目指しているけど…
今回扱う題材は、この現行の学習指導要領になってから教科書に採用された文章だ。つまり、定番教材と異なりゼロから学習課題が作られていることになる。
だから、昔から教科書に採用されている文章に比べて、「言語活動の充実」を意識したような設問が置かれていたり学習活動の指示が載っている。例えば「〇〇という表現についてどのような意味か話し合ってみよう」だとか「本文の〇〇以外にも例がないか探してみよう」という塩梅だ。
なるほど、確かにこの指示に沿ってやっていけば、さすがに検定教科書の面目躍如というべきか、「言語活動」を授業に自然に組み込める。
自分も過去に指導書を書いたことがあるけど、かなり色々と決められた条件の中で、できるだけ現場の先生方にストレスなく使ってもらえるようにかなり工夫を凝らして書く。だから、改めて書かれている内容を確認してみると「よくできているなぁ」と思う。悲しいことに、自分もそうだけど、あまり指導書に書いてある通りに授業をしない(笑)むしろ、けちょんけちょんに「こんなんじゃダメな授業だ!」くらいに言う人は少なくない(笑)
まあ、それはともかく、指導書の学習活動の内容を確認しているときに、ふとと何となく違和感を感じたのです。
当たり前に書いてある使役表現
指導書の「学習活動」の指示を読んでいると、「〇〇について考えさせる」だとか「〇〇についての意見を書かせる」だとか「自由に話し合わせる」だとか、「学習活動」の記述を読むと当たり前のように「生徒に〇〇させる」という使役表現で指示が書かれている。
確かに、教員の指示を中心として授業を展開するのであれば、生徒には教員の指示に従ってもらうことになる。そうなればどうしたって「〇〇させる」という表現になる。
でも、ちょっと冷静に考えて「自由に話し合わせる」だとか「自分たちで考えさせる」だとか、「主体的」に見える活動に使役の表現が入っているのは自家撞着だ。でも、まあ、「教員が授業をコントロールする」のが前提の授業であればこういう書き方になるんだろう。
でも、こういう発想の延長線上にはAL型の授業はない気がする。少なくともこのような形の授業を再生産していれば次期指導要領の求める「主体的・協働的で深い学び」は実現できないと思う。この延長線上で授業をやるなら、それは苫野一徳先生のいうところの「一斉アクティブラーニング」でしかない。
「自分から進んで〇〇させる」とか「自由に〇〇させる」とか不思議だけど、なかなか教員はその奇妙さに気づかないで、言葉遣いとして使ってしまう。
気づいたら変えてみる
指導書の記述を何気なく読み返してみると、その言葉遣いに教員が当たり前だと思っている価値観が隠れている。強制して押しつけているのに「自由に」だとか修飾語をつけることで誤魔化していることなどなど。
教員にとっての当たり前は、あんがい生徒や一般の感覚からすれば当たり前ではないのかもしれないよ?