当ブログは苫野一徳先生の哲学に影響を受けて、色々なところで苫野先生の書籍を紹介している。
今回も苫野先生の書籍ということで早速読んでみましたが、やはりとても面白く、勉強になりました。
現場から立ち上がる哲学
今回の書籍は、普通の教員からすれば十分すぎるほど「カリスマ」*1である多賀一郎先生がご自身の教育実践について包み隠さず話し、その内容について苫野先生が教育哲学の側面から分析するという構成になっている。
多賀先生の話はおそらく多くの読者が想像するよりも「現場の現実」に近いものであるし、「現場」からすれば「ここまで話すのはけっこう危ないのではないか?」というようなきわどい話もある。
多賀先生ほどの先生がわざわざここまで赤裸々に自分のことを開示することがまず凄い。逆に言えば、ここまで開示して、分析や批評の対象に自らなることに、教員としての多賀先生の哲学を感じる。つまり、自分自身を常に「問い」の対象として冷徹に見つめ、より「よい」あり方を目指そうという、本書のことばを借りるのであれば「アクティブ・ラーナー」としての教員を体現していると言っていいのだろう。
僕はどちらかというと、アクティブ・ラーニングとは縁遠いところにいる旧いタイプの教師です。旧いタイプの教師が、これからの教師にとって何か意味があるのかどうかを冷静に考えていくことは、これからの教師像を考える時に大切なことだと思います。それを苫野さんに委ねています。(PP.4-5)
「旧いタイプの教師」と「新しいタイプの教師」の二項対立は、苫野先生が「問い方のマジック」と指摘する「教師は強力なリーダーであるべきか? それともファシリテーターであるべきか?」という問い(P.126)と同じで、どちらかが一方的に優れているというものではない。多賀先生は自分のことを「旧いタイプの教師」なんて自称していますが、その「旧さ」は「指導を徹底する力強さ」であるし、一方で「覚悟」*2をもって「生徒に委ねる」という「新しさ」も併せ持っており、まさに「問い方のマジック」を乗り越えた教員の姿を体現しています。
自分が積み重ねてきた実践から得た知恵を活かしながらも、思い切って変わりゆく子どもと社会に合わせて自分の実践のあり方を変えていったのだとよく分かります。そうしてたどり着いた現在の多賀先生が語ることばの一つ一つには、まさに「実践知」の集積としての教員の哲学を感じることができるのです。
現場へと広がっていく哲学
多賀先生の実践の原理や哲学を詳らかにしていくのが苫野先生のパートだ。
このパートはまさに苫野先生!と呼ぶべき内容になっている。
冒頭から、多賀先生の「子ども中心主義」という実践を元に「子どもを「無力」にしてしまってない?」と現在の「管理」したがり、(大人の都合の)「いい子」ばかりを育てたがる学校や教員のあり方に疑問を呈することが書かれていますが、苫野先生のこれまでの書籍を読んだことがある人なら、「その話が聞きたかった!」と思わず膝を打つはずです。
今回の苫野先生の解説の意義は、一教員の実践を哲学という視点から分析し、その意味を掘り下げていることにあると感じます。
本書の序章で多賀先生は教員という立場から教員の持つ哲学について「深い思索を通したものでなければただの「思い込み」になってしまう」(P.29)と教員への自重を促していますが、まさに苫野先生は「深い思索」の実践者であり、実践を哲学するとはどういうことか示してくれています*3。
これまでの書籍で苫野先生が説明していた「自由」の本質や「相互承認」の意味などを、学校という場でどのように見取っていけばいいのか、どのような姿を思い描けばいいのかということが、多賀実践を通じて我々教員一人一人に具体的なイメージとして確実に共有されていくのです。ですから、これまでの書籍で上手くイメージを持てなかった人であっても、今回の本で今まで以上に明確に「哲学」のイメージを持つことができるのではないかと思うのです。
なお、本書の内容の多くはこれまでの苫野先生の書籍でも何度も紹介されていることと重なる部分も多いので、興味がある方は苫野先生の書籍を読んでみるとよいかと思います。逆に本書を読み終わったら他の書籍を読んでいくことが重要だとも思います。
学校の中のフィクションを生きることを
さて、このように「哲学」というキーワードを通じて、リアリティのある教員の姿や目指すべき学校のあり方が見えてくる本書でありますが、裏を返すと、今の学校という現場が子どもたちを学校が作り出したフィクションに押し込めすぎているのではないかということが見えてきます。
学校や教員が求める「いい子」とは「管理に都合がいい子」であり「大人に都合がいい子」である。学校や教員が次々と作り出す「規律」は「管理」のための方便でしかなく、社会と隔絶しており、学校の外で生徒が生きるためにどれほどの意味があるか疑わしいことも数多くあるものだ。まさに、学校の中だけのフィクションというべきもので、教員も生徒も無自覚に学校の中のフィクションに日々を生きていると感じる。
本当に子どもが社会の中で生きていくことを「願う」ときに、フィクションを生きることを強要することは、教員だからこそ自戒を込めて言うけど、やはり教員が犯しがちで、しかも最も罪深いことなのではないかと思う。
本書を通じて、自分が一番考えたことが、まさにこの学校の中のフィクションと教員としてどう向き合わなければいけないのかということだ。哲学というある意味で実態がなく、それこそフィクションのように思われることにこそ、子どもが社会で生きていくためのリアリティがあり、毎日、個別具体的な生徒に接しているはずの学校や教員がリアリティのないフィクションに拘泥していることがとても皮肉に感じるのだ。
折しも、自分の勤務校はまさに異様で愚かなフィクションを一つ今日から始めたのだ。それを見るだけでも自分は精神的に苦しくなる。なぜなら、子どもたちの尊厳が脅かされているからだ、そして、子どもたちからの信頼を損ねているからだ。
だから、ささやかな抵抗として、自分のクラスの生徒に本書の「ルール」に関する苫野先生の論考を読んでもらった。
よほど、生徒の方が本質を分かっているらしい。生徒の感想を紹介して今日は終わりにしよう。
今日から新しい校則が増えました。自分たちがだらしなかったことが悪かったし、学校が成り立つためにはルールは必要です。でも、結局、校則を押しつけられるとは、先生たちが私たちを信頼していないことを言っているのと同じですよね。だから、私たちもますます先生たちを信頼しないからこんな校則を守ろうとなんて思わない。
これに対して逆上するような教員になりたくない。
*1:この「カリスマ」という言葉は厄介なものである。崇め祭り上げて周囲に有無を言わせないような「カリスマ」であれば、教室においてそれは短期的には有益であり、長期的には害悪であると個人的には感じる。秘術としての「カリスマ」であったら、この本を読む意味はなかった。多賀先生の話は「カリスマ」としての魅力がありながらも、教員としての「哲学」が貫かれていたからこそ、この対談本が面白い。
*2:この「覚悟」という言葉についても面白い話が書かれている。多賀先生いわく「あまり思い詰めた覚悟じゃない」(P.179)という。子どもの人生の全てを助けてはやれないが、少しの手助けで大きく変えることができることもあるという難しいバランスで仕事をしなければならない、教員に必要なバランス感覚なのだとも思う。
*3:まあ……多賀先生も苫野先生に自身の全てをさらけ出して鍛え上げてもらおうと思うのですから、骨太な哲学の実践者だよなぁと思う。