年末の授業数の調整で考査の問題の解説授業をしばらく続けます。年に数回しか教壇に立たないので、この授業は珍しい。
特に一斉授業で何か問題を解説するなんてほとんどやりませんが、たまにこうして時間を調整するためにやるのです。そうしてたまに一斉授業で一方的に話していると、つくづく一斉授業をするだけならラクだなぁ…と思うのです。
誰のペースで授業が進むか
一斉授業がラクな理由は、授業のペースのコントロールが授業者である自分が握っているので、それだけでも精神的にラクだ。生徒に任せていると思い通りに進まないこともあれば、生徒の気分が乗らないがために授業が成立しないんじゃないかとヒヤヒヤさせられたりと、ただ委ねて見守るということは非常に精神的に重苦しいことが多い。
それが一斉授業だと、基本的には「ここまでやるのだ」というペース配分は、授業者の方が握るので、あまり大幅に遅延するということはない。
いわゆる、テンポよくだとかそういう話である。ついていくのがきつくならないようにしつつも、どんどんと進めていく。とにかく多くの情報量を投げることができるので、教えたという気分にもなりやすい。
ある程度、一斉授業については技術を磨けば、学力差が多少あっても、何となくその場ではよく分かったというような気分にさせることはできるものだ。何となくでいいから、一つでもなんかわかったという気持ちになると、授業を満足のうちに生徒も終えてくれるし、授業している方も手応えがあってよいものである。
授業準備がラク
一斉授業、特に問題演習の解説となると答えが一つに定まるということもあって、解説は非常にラクだ。もっと言うのであれば、過去、どこかでやったことをリサイクルして授業することもできるので、ほとんど労力を掛けないで済む。
卑怯な話だけど、普段から教えている生徒であれば、何が苦手であるかを把握しているし、教えていないテクニックなども把握しているので、少しでも目先を変えるようなことを教えてやれば、とても勉強した気にさせてあげることもできる。
生徒を悩ませないでよいというのが、とても楽である。
もちろん、よく分かるということはよくできるということを意味しない。
責任から解放された気分になれる
一斉授業をすれば、必要十分なことを伝えることができる。
それこそ教えなければいけないことをリスト化しておいて、漏れ抜けがないように順番を考えて教えさえすれば、授業者としては「教えた」というアリバイを手に入れられる。つまり、教えたんだから自分としてはやるべきことをやったのだぞ、という気分になれる。もちろん、そのあとに待っているのは「できないのは生徒の練習不足」がセットである。できるようになった生徒もいるんだから、できないのはできない生徒が悪いという理屈が出てくるのである。
ま、露骨にできないのは生徒が悪いなんて言う人は五割くらいだと思います。普通の人はできるかはわからんけど、その場では分かった気にはさせるくらいの授業は行うでしょうから。
工夫された一斉授業
ま、上の書き方はかなり性根の曲がった言い方をしていますね、うん。一斉授業でも授業名人の人々が生徒に発問で揺さぶりをかけてみたり、生徒の意見を名人芸で拾い上げて授業してみたりと、高度な技があることは知っています。
しかしね……どうも横着な性格をしている自分はそういう「ゆさぶり」だとか「板書でまとめる」だとかの名人芸的な授業に対してはこう思うのです。
面倒くさい。
揺さぶりをかけるくらいなら、初めから本質的な問いを投げればいいし、結局、授業者がまとめてちゃんちゃんと終わるなら、初めから結論を投げてしまえばいいじゃない。
そんな回りくどいことをしている時間がもったいない。その時間にもっと読んだり書いたりさせたほうがいいんじゃない?と最近はつくづく感じている。
まあ、これも少し意地悪な言い方だな。
生徒の頭に入りやすくなる状態にまでもっていくのも、まあ、名人芸だしね。
でも、それでも、回りくどいし他のことをやったほうがいいんじゃないかという気分である。
もちろん、こうして一斉授業を自分がやっている理由としては、一斉授業でさっさと教えてしまったほうが効率が良いこともあると思うからだ。入試問題を解くテクニックとかね。お作法的な意味のこと。
これは別に分かっても分からなくても困らないから、自分としてもさっさと終えたいことだし、何度も繰り返すだろうことだから焦る意味もない。
そして、それが必要な時だと思えばやればいいのです。心残りといえば、聞きたくない生徒がそれを聞かないで教室を出ていくことを許しにくいことですかね。