ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

「学ばせ合い」と感じる原因はどこに?

old school

先日、こんな本が出た。

学びの哲学―「学び合い」が実現する究極の授業

「教育」と「哲学」と言えば、苫野一徳先生のおかげで「教育」を本質的に語るときに重要な視点だと思うようになっているため、「学びの哲学」なんてタイトルを見たら期待しますよね。

「改革」のための問い

本書は「不十分なことを改めてよくする「改善」の意味を超えて、本質に立って根本から構築する意味にこだわって「改革」」(P.2)と冒頭に述べるように、以下のような問いが重要だと提言することから始める。

授業改革に当たっては、

「そもそも、授業とは何か、何をめざすのか」

「学びとは何か、どのようなものなのか」

「子供とはどのような存在なのか」

等の根本(物事を成り立たせる大本)に関わる問いが必要です。それとともに、

「どのような形式があるか」

「いかなる方法があるか」

等の形や方法に関わる問いも大切です。

(P.2)

この提言についは、方法論に傾きがちであるアクティブ・ラーニングの議論からすれば重要な観点だ。

授業や単元を成立させ、運営していくためには、教員が常に問わなければいけないことであるのは間違いないだろう。ある意味で、このような問いを不断に行っていくことが「形成的評価」ともいえるし、『学び合い』での「語り」に当たるようなものであるといえるだろう。

その意味では期待して読める……と思ったのですが。

何となく生まれてくる違和感

著者の嶋野先生や本書で紹介されている鈴木先生の実践については、実は2011年の段階でこんな記事が出ている

2011年となるとタイミングとしては、現行の指導要領が実施になっている時期だ。その時期に既に行われていた授業について、意味を整理しなおしてまとめているのが、本書の一部に紹介されている。

2011年の段階で「学び合い」の授業の形を作り、意味のあることだと主張されていることに凄みを感じつつも、そのフレームを今回の指導要領の変革へと持ってきていいのかとふと思うのである。

どうしても違和感として強く感じることとして、「教員」が主語になってしまっている「アクティブな学びを創りだす」というような表現が所々に見えることや、「学びへの意欲を生み出す」などのように書かれるものの、具体的な「社会」への接続という意味では漠然とした印象の強い言葉が並ぶことの二つがある。

些末な表現や言葉尻を捉えた揚げ足取りかもしれない。しかし、何とも言いにくい、強い違和感を自分が持っていることは間違いない。上手く論証しきれないのだけど、結局、45分を一まとまりと前提としてしまい、「教員」が「前」にいることが自明として描かれる授業の形は「学び合い」というよりは「学ばせ合い」なのではないかと思うのだ。

www.s-locarno.com

つまりは、教員が何を学ぶか、どう学ぶかを握っており、あたかも個別化したような学びであるように見えながらも、実は子どもには本当に一部のことしか委ねられていないのではないかと感じるのである。

本書が何を参考にしているのか、何に基づいて論を立てているのかということについては、イマイチ参考文献が少ないので自分の読解力では読み取れないということもあって、文脈を読み間違えているのかもしれないが、どうもすっきりと「これが個別化した学びである」と受け入れられないのだ。

『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』と比較すると…

この本を読んで、言葉遣いや考え方という意味で思い出したのが

ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方

ようこそ,一人ひとりをいかす教室へ: 「違い」を力に変える学び方・教え方

  • 作者: キャロル・アントムリンソン,Carol Ann Tomlinson,山崎敬人,山元隆春,吉田新一郎
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2017/03/17
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

だ。

【参考】

www.s-locarno.com

この本の要点については

projectbetterschool.blogspot.jp

に詳しいので参照してもらいたい。

上述のPCL便りから「一人ひとりをいかす教え方」について引用すると

・教師が生徒たちの違いやニーズ(主にはレディネス、興味関心、学習履歴に表れます)を踏まえたうえで指導計画を立てるので、生徒たちは積極的に授業に取り組みます。
(中略)
何を(学習内容)、どう学ぶのか(学習方法)、そして学んだことをどのように証明するのか(=成果物)の3つで、生徒たちに選択肢が提供される教え方です。
・生徒たちが熱中して取り組め、意味を感じられ、そして興味が湧くものに対しては、よく学べるということを(そして、生徒たちすべてが同じものに熱中し、意味を感じ、興味が湧くわけではないことを)ベースにした教え方です。

http://projectbetterschool.blogspot.jp/2017/07/blog-post_23.htmlより。2018年1月27日 20時確認 下線強調は引用者)

と説明されている。

上の引用のうち、自分が下線強調した部分がおそらく自分が『学びの哲学』からは読み取ることができなかったことであり、なおかつ自分にとっては比較的重大な授業観であるので、『学びの哲学』に違和感を抱く原因となっている部分なのかもしれない。

生徒の興味、生徒が持てるはずの選択肢、学習履歴、そのようなものがある意味で教員の「力技」で捨象していくような、そんな違和感を覚えるのである。

もしかすると、今、ちょうどリーディング・ワークショップを行っていることもあって、かなり自分が毎時間、苦労してカンファランスで生徒の評価を続けているので、そのこともあってか、この本で提示されている授業スタイルでは、生徒の評価が不十分でしかない、生徒の個を把握するということが難しいのではないかという感覚がある。

苫野先生の『教育の力』と比べると…

また、「哲学」と謳っていることもあるので、苫野先生著書と比べても考えてみました。

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 
どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)

どのような教育が「よい」教育か (講談社選書メチエ)

 

そうして気づくことは何かといえば、『学びの哲学』のほうは現状の授業や学校モデルの拡大再生産であるのに対して、苫野先生の主張は中長期的には、ラディカルに学校という枠組みを変えていくことなのだ。

ここまで考えてきて、少しずつ自分の中の肚落ちしない感覚の正体が分かってきた。

つまり、自分はやはり根本的に「今の学校」が嫌いなのだろうということだ。自分が生徒として蓄えてきたルサンチマンを払拭できないできないでいるし、払拭するよりも学校という枠組みを外れることを志向しているのだと思う。

もちろん、今すぐに自分も学校をぶっ壊す!なんて言ったりする気はないし、今の学校の形でも蓄積されてきたよさというものを否定する気はない。しかし、それでも「学校」という枠は外していきたいのだと思う。

だから、『学びの哲学』に対して、よさを理解しながらも同意できないのかもしれない。

余談、とりあえずやってみることを良いこととしているけど…

本書の最終章では「ポジティブ」に「とりあえずやってみること」を良しとしていますが、個人的にはこれにもいちゃもんはある。

が、完全にいちゃもんなので、過去記事の紹介に留めておきます。

【雑記】とりあえずやってみようではダメではないか? - ならずものになろう

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