ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

違いを直視しながら

Nankeen Kestrel

リテラチャー・サークルで夏目漱石の「こころ」を読み進め、どのクラスも3回目くらいを終了。やり始めて軌道に乗り始めると色々と課題も見えてくる。

そこにいるメンバーで出来ることをやればいい

文庫一冊まるまると授業で自由に読ませていると、クラスごとに出てくる解釈を制御することはほとんど不可能である。初めから「読み」の方向性や深度がクラスによって変わることについては、実は諦めているというか気にしていない。

果たして、「読み」の方向性や深度がクラスによって差が出てしまうことについて、教える側が放棄していいのかという声が聞こえてきそうだけど、むしろ、それを制御してしまったら、回答を教えるしか選択肢がないのではないかと思う。

そもそもクラスごとに、そこにいるメンバーが全く異なる上に、これまでの経験からどこまで読めるのかということも全く異なる。同じ文章を読ませたって、注目するところは全く異なる。そんな生徒たちが自由に話し合って解釈しているのに、どこクラスも同じように読むなんてさせようとしたら、教員が強引に口出しするしかない。

だったら、初めから自由に読ませるなんてしなければいいのだ。

解釈は自分の経験などに基づいて独自に組み立てられるもの。

この本にはそんな話が結構出てくるので興味があれば読んでみると面白い。

わかったつもり?読解力がつかない本当の原因? (光文社新書)

わかったつもり?読解力がつかない本当の原因? (光文社新書)

 

考査や評価はどうするのだと言われるかもしれないが、基本的には「読み」のスキルについてを見ていくようにすればいいのではないかと思う。それこそミニ・レッスンで教えるようなことがどのくらい使えるようになっているのかということを見取っていけばいいのではないかと思うが、だからといってそれを反復練習するように使われてもどうかとは思う……まあ、ごめんなさい、やっぱり保留です。結局、自力でどのくらい読めるようになったのかという生徒の変化を見取っていくしかない気はする。

それでも気になるクラスの差

とはいえ、やはりクラス間の差は徐々に大きくなってくるので、違ってもよいと強弁している自分も段々と不安にはなってくる。

どのくらい違うのかといえば、あるクラスでは自分が一切口出ししなくても、それどころか教室に行かなくても勝手にやっているくらいに自分たちでやれるし、あるクラスではそもそもリテラチャー・サークルで必須の予習さえもやれない生徒が多いくらいである。予習よりもソシャゲに忙しいので仕方ない。

やれることが全く異なる。まあ、当たり前ですね。

そうなると毎回の授業で、同じ場面をやっていても、まったく違う振る舞いをその場で考えてやらなければいけない。

一体、何をやればいい?

授業準備の仕方が全く異なる。できるだけ色々なことを事前にカバーできるようにしなければいけないし、一体、何を教えているつもりなのかということを自分の中でぶれないようにしておかなければいけない。

そのために毎回授業でノートを集めて、生徒が何をしているかを見直す。

本当にある意味で力技。

これでいいのでしょうかね。

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