ロカルノ先生が現役高校生の時に書いた作文、とかサクッと出てくるのがポートフォリオ戦略の副産物だと思うんですよね。大学だと指導教授の過去論文を探すし読むし、ディスカッションするじゃん。かなり本気で。
— OMI (@DirtyTeacher) 2018年2月16日
小中高の先生ってそういう自己開示が無いんだよね。安全地帯から指示出しちゃう。 https://t.co/vlu1CZWJah
こんなご指摘をいただいた。
表現をさせるだけさせて…
本当におっしゃる通りだと思うのです。自分も含めて、特に高校の教員なんて生徒に課す課題の量に対して、自分が表現して見せる量は多くない。
自分もやっぱり生徒に書かせている文章の量に対して、自分が生徒に見せている文章の量は多くはない。
学期初めの授業開きで何を考えているのかということやこんな授業をやりたいということを文章を書いて見せるが、生徒に書かせている量を考えると、ぜんぜん数が少ない。
一応、生徒に課すような課題の文章は自分で実際に書いてみたりやってみたりするのだけど、それを出すタイミングも難しくて、結局、誰にも見せないままになっていることが多い。
いかんよなぁ…自分は一方的に生徒のことを評価するのに、自分は生徒からは評価されないのですから。
こんな記事が出ていたが、この記事の中で「減点基準」なんて12個も挙げているけど、添削する側からすればあらを探すのは簡単なのだよ。自分がそういうあら探しを受けないのに、生徒の作品をしっちゃかめっちゃくに引っ掻き回すのは何だかなあと感じる。
減点基準については、それはそれで指導していかなければいけないことであるけど、作品が出来上がった後に、もう、にっちもさっちも動かせなくなってから「ここができていないからC」だとか「ここがダメだからB」だとかするのは、やっぱりおかしい。
とはいえ、200人近くを抱えていると、どうしてもまとめて評価に陥りやすい。
学習指導要領改訂後の「書くこと」は…?
先日、高校の学習指導要領の改訂案が出された。
上の記事でも触れたが、高校3年間で「書くこと」の授業は合計で100単位時間程度になる*1。
アクティブ・ラーニングが流行っている*2ことや大学入学共通テストで記述問題が出題されることから、授業で「書かせなきゃならないぞ!」という雰囲気は出てきているので、授業の中で「書くこと」が増えていくのではないかと思う。
その時に、生徒に大量に意味があるか分からない文章を書かせ、作品を一方的に散々に批判するような指導が増えていかないかということは心配だ。
いや、だからといって、自分もまだまだ全然、生徒に自分の書いているものを見せていないのだけど…。
こうしてブログを書くのも…
免罪符にはならないのだけど、こうしてブログを書いたり発表用の原稿を書いたりすることは、自分が少なくとも「書くこと」を続けるという姿勢は持ち続けたい。
ま…本当は、やっぱり同じ課題で自分の作品を示すべきですが。
*1:繰り返すけど、現行の学習指導要領も同じくらいの時間数が指示になっているが実態は…『ライティングの高大接続?高校・大学で「書くこと」を教える人たちへ』参照
*2:皮肉である、もちろん