ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

我慢するしかないのかと

William Tell

教科においても少しずつ来年以降について考えていかなければという時期になりました。そのため、教科の中でも打ち合わせをするのですが……。

言葉に断絶がある

自分がとても熱心な勉強家であるとはまったく思わないけど、それでもかれこれ十年は国語科教育と毎日格闘しているので、国語科は何を大切にしているのかということについては、少しは分かる気はしている。

国語科教育学研究の成果と展望

国語科教育学研究の成果と展望

 
国語科教育学研究の成果と展望 2

国語科教育学研究の成果と展望 2

 
国語教育総合事典

国語教育総合事典

 

これらを毎日読んでますし!(半分嘘、暇なときにパラパラと…くらい)。

そんなこともあって、例えば、「単元学習とは…」とか「観点別評価とは……」とか、話し出すとどうしても小うるさくなるし、知っている原理・原則や学力観と異なることを言われると「いや、それは違う…」と思ってしまう。

自分ができることややれることが他の人ができるとは思わないし、ろくに勉強も経験もない自分が名人芸のような授業はできない。だから、どちらが優れているかということを競う気はないのですが、授業を今後、どのように考えていくのかということを話すときに言葉の遠さを感じてなりません。

一番根本的なところとして…

ただ、やはり譲れないところ、理解してほしいところの発想としては「学習者中心」ということなんだけど、それが実は一番難しいのではないかという気がしてきてならない。

「学習者中心」という概念を理解し、共有していくためには、根本的に「コンテンツベース」から「コンピテンシーベース」への転換ということを理解してもらわないと無理なのだけど、どうしても国語科という教科の性質上、「教材」つまりはコンテンツから離れて考えにくいようである。

だから、カリキュラムを新しくしようということを考え出しても「どの教材をやればいい?」「どういう教え方をするのか」「受験生には精読させるしかない」という全く何も今までと変わらないところをグルグルしているような話し合いしかできない。

本当に、厳しい。

自分が「学習者中心」にこだわるのは、要するに自分が誰かに教わるのが嫌いだったからということに突き詰めればたどり着いてしまうのだけど、ここまで話がかみ合わないで、世の中から少数派扱いされると、自分の考える「学習者中心」の学力観が間違いなのか、もっと詰め込まなければならないのか、何になるんだか分からない解説の授業を何時間もやるべきなのかと気持ちが揺らぎそうになることは一ミリもないのだけど、いい気分はしない。

持っている教育への価値観の差を埋めていくことはかなり難しい。最終的には理詰めでへし折ることはできると思うんだけど、へし折ったらお終いである。二度と対話にはならない。何度もへし折ってやろうと思ったことはあるけど。

それでも言葉を探っていく…

それでも自分がこの学校から出ていかないのであれば、粘り強く対話をするしかない。

www.s-locarno.com

これについても、基本的に「小手先」に走る愚かさの方が本音ではある。しかし、対話をするだけのことばを自分が持たない、溝を埋めていくことが難しいという時には、自分たちの価値観の対立にしないで、外側から価値観の軸を連れてきて正面衝突を回避しながら進めるしかないんじゃないかと思う。

全校に呼びかけても一割に満たないレスポンスしかない。しかし、それでも、我慢強く、「またか」と白眼視されても、呼びかけ続けるしかないと思っている。

自分のやりたいことやできることからすれば、心の底からやりたいことではないし、無駄だって多いさ。でも、粘るしかない。

もし、粘ることに嫌になったら、出ていくしかないのだろう。その時は誰か拾ってください。

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