ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

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【書評】『学校は、何をするところか?』を読んで元気になる

Russian tall ship Pallada

苫野先生と菊池先生の対談の本が出版になりました。

学校は、何をするところか?

学校は、何をするところか?

 

帯の通り「根本から考えよう!」という熱意の伝わってくる本です。

この前の多賀先生との本が今の学校をどうにかしなければ!という憤りに近いものを読んだ後に抱いたのに対して、今回の本は何となく元気をもらえる、明日から頑張ろうと思うような本でした。

そうだ、パラダイムが変わるんだ!

恥ずかしながら、菊池先生のことは名前は存じ上げていますし、広告などで「ほめ言葉のシャワー」などは目にしていますが、実際に著書を読んだことはありません。なんというか、食わず嫌いに近いわけです。

したがって、どのような考えをされている方なのかということを全く知らない、フラットな状態で読みましたが、やはり、筋の通った実践を積み重ねてきた方は、子どもたちの視点から自然に授業を見て、考えているんだと思いました。

…教師の根底の部分で本当に子どもを信じているか、信じていないか、ということだと思います。「ほら、手遊びしているでしょ。そこ」と毎日言っているような先生は、「私がちゃんと答えを握っているんだから、子どもはノートを出して、ちゃんと学びましょう」というわけですが、こどもを信じていないんだと思うのです。(P.30)

上の引用部は「学びのコントローラー」ということをめぐって、過去の生活科や総合学習がいったい何だったのかという会話の流れから出てきたものですが、実践者がこの言葉を言うことはかなり重い。

結局、実践者は、現場にいる人間は、「学びのコントローラー」を委ねることの重要性を頭で理解して、そして何とかそうしたいと願いながらも、様々なしがらみにとらわれて、その難しさに頭を抱えてしまう。

www.s-locarno.com

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自分だって何度も偉そうなことを言ってきたけど、現実の職場では余計な敵を作りたくないがために、声高に「子ども信じていないんだろ」とは言えない*1

だからこそ、多くの実践を積み上げ、評価もされてきた方が、こういう意見を主張されることには重みがあるのです。

そして、このような教育観の対立のことを、苫野先生がまた上手くまとめてくれる。

つまり、パラダイムの転換なのであり、そして、だからといってそのパラダイムの転換に上手く対応できない教員を悪く言うことにも意味がない、「問い方のマジック」なのだと。逆に現場に近い分、菊池先生の方が「このままじゃ遅いんだああああ!」と聞こえてきそうな*2勢いで「良くないものは良くない!」とバッサリ切り込んでいる(笑)。

原理・原則から語る苫野先生の言葉と、冷静に筋を通しながらも現場に対する(もしくは現場からの)熱意を隠せない菊池先生の言葉のバランスがとてもよいです。

名人芸を乗り越えて

本書の後半には菊池先生の授業についての苫野先生の簡単な分析があります。

その分析については、本書の目玉だと思いますので、あまり紹介してしまうのは憚られるので避けますが、自分が最も共感した箇所について紹介しますと…

一方で、私自身は、菊池先生と同じレベルの実践をするのはちょっと難しいなと正直思いました。私にはその能力がありません。また、個人的には、ほめる、ほめられるということがあまり得意ではないので、皆の前で、ほめてください、ほめられてくださいというようなことをするのはちょっと苦手かもしれません。(P.108)

自分が菊池先生の本を手に取らない理由はここにあると感じます。要するに、食わず嫌いで苫野先生がいうようなことを感じていたからです。まあ、食わず嫌いなので反省するべきなのですが……。

苫野先生が述べるように菊池先生の実践は「ある意味キャッチ―だし見た目にも教室の活発さが伝わりやすいので、特に注目を集める実践」(P.112)であるので、なんだか「形」だけが流行しているように見えて、「なんだかなぁ…」と感じていたことを白状します。それを言い訳にして一次情報を当たらなかった怠慢は反省します。

苫野先生の「ほめ言葉のシャワー」に対する分析は、「菊池先生のめざす教育観の実現のための、一つの契機です。」(P.112)という指摘には、本当に反省させられます。

また、菊池先生自身の言葉に

子どものときに一番怖かった言葉は、「好きな人とグループを組んで」でした。(中略)あの言葉が怖かったのは、2か月、3か月に一度だけ突然言われるからなんですよね。その瞬間に、クラスの中のヒエラルキーが見えて、誰かがハブられるんですね。そういうことは、本当に突然、しかもたまにやってくるから怖かったのです。普段から、いろいろな人たちと、人間関係の濃い薄いを超えて、コミュニケーションをとる機会があれば、必要に応じて、必要な人と組むなど、自分なりのコミュニケーションの仕方を学ぶ機会はあったはずです。(PP.88-89)

というものがあり、まさにここが「原体験」なのだと理解すると、「ほめ言葉のシャワー」が「コミュニケーションの仕方を学ぶ機会」として一つの方法として実践されていることなのだと理解できる。

どうしても「ほめ言葉のシャワー」という「形」から入っていくものが多く、「形」から入る例を見て、苦々しい思いを持つことが多かったので、敬遠していましたが、こういう願い・授業観であればとてもよく理解できる。

なるほど…自分もやっぱり「問い方のマジック」ともいうべきものに陥っているのだと。

菊池実践の根幹はコミュニケーションなのだと。しかも、それは決して仲良しこよしではなくて、もっと実際的な「市民」としての関わり方の模索なのだと*3

明日からを元気に…

理由はよく分かりませんが、この本は読み終えるととても元気をもらえます。

なんだろう?実践現場ってまだまだ捨てたものじゃないんだよという声が聞こえてくるからでしょうか。

*1:言ってないとは言っていない

*2:感想には個人差があります。

*3:こうしてみると『学び合い』が思い出されますが、菊池先生の実践とどうつながっているか、詳しい人いれば教えてください。

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