ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

生徒が物語を読むということ

Story Cubes

リテラチャー・サークルで読んできた「こころ」もいよいよ終わり。

生徒にとって決してなじみがあって読みやすいものではなかったのを、我慢強く読んできました。我慢……なのか?それは否定できないけど、それでも楽しく読めたのではないかと思っている。

自分で読むということ

一番、大切なことは「自分で読む」ということを教える側が諦めないことだと思う。

とてももどかしく、授業者である自分がさっさとリードしてしまえば、済むような話を我慢強く聞きながら、少しずつ介入して……。とにかく、大人に頼らせない。自分で自分の考えを作りあげるということに向き合わせたいと思ったのです。ある意味で、時間を掛けて読むことを拒否するというのであれば、それはそれでもう仕方ないだろうという割り切り。

本当は、全員がやらなければいけないことを、全員に求められない自分の力量のなさとこれまで二年間の指導のヌルさを反省しなければいけない。もしかしたら、許されない怠慢なのかもしれない。

www.s-locarno.com

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結局、半年前から成長もさせられていないともいえる。

しかし、それでも、「自分でどこまで読むか」ということを決めて欲しかったのである。「山月記」の時は自分が少し問いを投げて、それに生徒が答えを考えてくるという準備をしてもらって、その成果に基づいて話し合うという方向でやってきましたが、今回のリテラチャー・サークルは、「何を話し合うか」ということについても、自分たちで決めてくるように求めたのです。もちろん、話題の立て方はミニ・レッスンで教えて。

見た目は大差ないのかもしれないけど、「自分たちで毎回一コマ話し合えるだけのネタを用意してくる」って決して簡単なことではないよなぁ…と少しだけ今となっては申し訳なく思うところもあり、それに応えて何とか「こころ」という物語を進めてきた生徒たちの成長を感じるところもある。

授業は拙かったけど、生徒の方が踏ん張った。とりあえず、本当、立派になった。そこは手放しに誉めるよ、もっと伸ばせたかもしれないのはごめん。

支援のために介入はするけど、手を出さない我慢。あまりに難しい。

誤読を気にするべきか

こうして何から何まで投げていると、生徒は好き勝手に読む。それでいい。

しかし、「こころ」となると時代性の違いなども大きいし、生徒の手持ちの情報だけではまったく理解できないことも非常に多い。「先生」や「私」が帝国大学生であることもピンとこないくらいには、知識はない。

それゆえに、色々なことが難しく映るし、単純な勘違いも数多く起こる。うっかりすると、ネットの怪しいまことしやかな情報を鵜呑みにして披露するようなこともある。

さて、そのような一般的に授業においては「誤読」と呼ばれるものをどうすればいいか。

自分の今回の答えは「とりあえず見守る」ということだ。よほど、トンチンカンな勘違いや知識がないために解決不能なことは介入して理解してもらってはいるけど、多少の勘違いは流すことにした。

理由としては、

  1. 枝葉末節の勘違いは読みが進む中で解決されることもある
  2. 解釈に関わる思い込みは自分自身が納得しないと変わらない
  3. 自分たちで読みを修正できるだけの力があると信じている
  4. ある意味、生徒の誤解は想定の範囲内

というようなことがある。まあ、ちょっと4は傲慢な感じはします。

結局、自分で決めて、自分を考えるということを生徒に期待しているんだと思う。

雑なことを言うならば、自分でくみ上げて納得した物語ならば、それがその人にとっての物語なのだと尊重したいのである。そして、その物語はまた時機が来れば自分で組み直すこともあるだろう。結局は、自分が求める物語を自分でくみ上げられる力を持ってほしいのだ。

人はなぜ物語を求めるのか

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自分たちの言葉を持ち、自分の住んでいる世界の物語を組みなおすことができる力―そういう力を物語を粘り強く問い直す過程で身に付けて欲しいのである。

新学習指導要領でいよいよ文学が消えていこうとする中で、「こころ」を一冊10時間もかけて読むなんてことをやっているのは畢竟時代遅れな感じがします。

しかし、語らなければいられないという人間の性があるからこそ、物語を語るということを高校でも粘り強くやる意味はあるのだと思いたい。

ああ、こういう感覚的なことしか言えない国語は平成に殉死するのでしょうかね。先生のように。

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