ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

授業者も表現するということ

portfolio_002

以前にこんな記事を書いた。

www.s-locarno.com

基本的に、自分は「自分が表現者であることを続けなければいけない」と強く思っており、場合によっては生徒からの批判を受ける立場に降りていかなければいけないと思っています。

ただ、批判を受けるとか評価を受けるといっても、教員は決して「成績をつけられる」わけではないので、生徒と同じ立場ではないことは難しいところだと思うわけです。

生徒の立場に立つことの意義は…

教員が学習者の立場に立つことの意義については、ちょうど折よく、今話題のハッティの新しい訳書の中でも重要な考え方として以下のように紹介されています。

教育の効果: メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化

教育の効果: メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化

 

本書で示された証拠の中でも注目すべきは、学習者の学習の効果を最大化は、教師が指導対象の学習者の立場に立ち、学習者が指導を行っている教師の立場に立つことによって起こるという点である。学習者が教師の立場に立つことで、学習者は自己モニタリング 、自己評価 、自己教授 といった自己調整能力 を発揮するが、これは学習を進める上で最も望ましい姿といえる。(p.57 下線強調は引用者)

また

学習者が教えられる教科を好きになるには、…(中略)…教師が指導者としての姿だけではなく、学習者が学習に取り組んでいる最中や成果を見たときの姿を見せることが欠かせない。(p.59)

というような指摘もあります*1

学習者の立場に立つことで、学習者に自分自身の学びのコントローラーを渡すことに繋がるのだと思いますが、ちょうど、岩瀬直樹先生がご自分の過去のことを振り返って、その難しさを述べていらっしゃいました。

iwasen.hatenablog.com

一口に「学習者の立場に立つ」といっても、その言葉がちょっとした教員としての過剰な期待でお題目になってしまう難しさを感じざるを得ません。

自分自身が学習者として何かに取り組む経験を続けることで、学びを自分のものにするためにどれほどの苦労をしなければいけないのかということを感覚的に理解しておくことは必要なのだろうと感じます。

国語科の、特に単元学習絡みの研究会に行けば、耳にタコができるくらいに「まずは言語活動を授業者がやってみることが重要だと」言い聞かされます。というのも、どんな優れて経験のある実践者だとしても、自分がやったことのない活動の「コツ」を……もう少し格好をつけた言い方をするのであれば、その言語活動でどのような能力が活用されるのかということを理解することは出来ません。また、実際に教員が活動に取り組んで出来上がったものが、授業における生徒に提示できる見本になるわけですし、その見本の作り方で生徒の活動の方向づけをすることもできます。

熟練者こそ生徒に期待する活動を自分が先に試しにやってみることをサボりがちです*2。たとえ、同じ単元や活動を他の学年で行うとしても、授業前には新しく自分でやってみる必要はあるでしょう。きっと、その活動に対する視点って自分も成長すれば変わるでしょうし、教えている生徒が違うのですから。

教員の成果物は拙いと問題だろうか

自分でやってみるとよく分かりますが、教員だからと言ってどの活動も高水準でできるわけではありません。

高校の国語総合の「書くこと」の言語活動例では

ア 情景や心情の描写を取り入れて,詩歌をつくったり随筆などを書いたりすること。
イ 出典を明示して文章や図表などを引用し,説明や意見などを書くこと。
ウ 相手や目的に応じた語句を用い,手紙や通知などを書くこと。

と挙げられていますが、国語の教員であっても「詩歌をつくったり」したことのある人は多くないでしょうし、油断していると「図表などを引用し、説明」したりすることや「手紙や通知などを書く」だって意外と取り組んでなかったりしませんか。

しかも、大切なことは別に活動が目的なのではなく、活動を通じて指導事項を指導することが重要なので、これらの活動が一体、指導事項の何と結びつくかということを、言葉だけで理解することはほとんど無理だと思います。

自分が国語の教員なので国語の例を挙げましたが、この点については別の分野であってもそれほど事情が大きく変わるとは思わないです。根拠はありませんが。

やはり実際に自分でやってみることで、「何を一番教えられるのか」ということが分かりますし、「何が難しいのか」という学び方のイメージも分かります。

そこで問題となるのが、自分が苦手なジャンルの活動に取り組むときである。自分が例えば全くやったことのないジャンルなどについては、うまくやれないことの方が多いでしょう。ヘタクソな成果物しかだせない……そんなことは、ありますよね。

自分も「短歌」の授業に取り組んだとき、生徒はコンクールで特選を取る一方で、自分の作品は……(´;ω;`)。

www.s-locarno.com

授業まで三か月くらい自分で試行錯誤したのですが……まあ、生徒には全然敵いませんでした。

しかし、このときの体験として重要と感じたことがあります。

「こうしたい、ああしたい」ということを授業の中で生徒に伝えた上で、生徒からの批評を受けるという形を取れること。これは、生徒にフィードバックをするには、表現者は何を伝えなきゃならないのかということをやってみせるということにもつながっていますし、生徒としてもフィードバック相手が教員なら容赦なくやれる(笑)ので、フィードバックの練習にもなっています。『「学びの責任」は誰にあるのか: 「責任の移行モデル」で授業が変わる』でいうところの「焦点を絞った指導」から「教師がガイドする指導」の過程を含むようなことを組み込んでいるのだと感じます。

拙い、苦手なことであれば、やはり生徒に対して提供できる情報量には差が出てしまうのは仕方ないでしょう。短歌の授業で俵万智さんに授業をやられたら、絶対にかないませんもの。でも、俵万智さんでなくても、生徒にきちんと教えるべきことを教えるべきですからね。

作品で生徒よりも優位に立とうとするというよりも、自分の作品すら授業の俎板に載せていくことで、できることが多いんじゃないかと思うのです。

対面の授業の良さはプロセスに関われることだと思う

以前の記事に、以下のような質問をid:kzfamily-kt3625さんからいただいていました。

「ひとりで指導案(主に日案)を作ることができるようになるために必要なこと」(シラバスで提示されている授業目標)について生徒に「教える」にあたって何よりも私自身の力量を向上させることが喫緊の課題となりました。

前置きが長くなりましたが、このような状況下では、まず「私自身が指導案を作成しそれを生徒に提示する」つまり「私も表現する」という行為には、当該授業の目標を達成する上で以下の点で利点と難点があったように感じています。

■利点
①表されたものは、学習者が授業をする者のある種の力量を推し量るための手段となることで、学習者と授業をする者の間で信頼を形成するための機会となる(「やっぱこの先生すごいわ」と思ってもらえること、つまり学習者にとって教壇の上に立つ者がその「資格」を有していると感じられること、吸い上げるべきものがあると感じられることは、学習者の学ぶ動機に大きく関係する点だと思います)。
②教授内容を私自身が授業に先立って体験することで、自分が対峙している生徒の現状の課題(見立て)に応じたスモールステップを用意することやそのための発問の発想や思考を触発させることができる(私の力量が未熟だからこそ成り立つ利点なのかもしれませんが)。

■難点(あまりないようにも思っています)
①利点①の裏返しで、「この人から学ぶくらいなら教科書を読んだ方がまし」と思われる機会となる可能性もある?

上記の私の考え対して、ロカルノさまはどのように思われますでしょうか。上記では私のおかれている状況に応じて、「教師が表現をした上で、その評価を受けるべきである」というテーマについてその効果を中心に検討してみたつもりなのですが、来年度の授業づくりにむけてより深い洞察に基づいた授業づくりができるようになりたいという思いからのご相談でした。お手すきのさいに、簡単にでも私のマインドセットの在り方についてアドバイスいただけますと幸いです。

ご自分でかなり細かく分析されていらっしゃいますから、自分が付け加えることは殆ど無いように思います。

それでもせっかくですからいくつか付け加えるのであれば2点ほど。

1つめは「学習者の評価の能力」です。学習者が他人の成果物について、「これはよい」「これはよくない」というような判断ができるということは、相当、その活動に対しての能力が高いと思うのです。ですから、もし、本当に「授業者の見本」を「これはレベルが低い」と判断できるのであれば、むしろ、その能力の高さを授業にフィードバックしてもらえるような設計を考えます。もちろん、授業者への評価が正当であるかは問題ですが。正しく、評価できるのは相当に難しいことのはずですから。

そして、それと関連して2つめですが、対面の授業だからこそ対話やプロセスを大切にしたいところです。つまり、授業者への低評価だとしても、実際にその理由を聞きだしたり改善点を聞いたりすることで、学習の仕方のメンターとしての立場に教員が下りていけばよいのではないかと思うのです。逆に対話のうちに教員への評価が不当なのであれば、評価の観点などを指導することにもなりますしね。

ま、教室での権力は非対称ですから口で言うほど簡単なことじゃないのは重々承知してますけどね。

 

はたして質問の意図に応えられたのか分かりませんが、自分が考えていることはこんな感じです。

ご質問ありがとうございました。

*1:ただし、これらの指摘も、教育の効果として複雑で、様々にある要因のうちの一つであり、この要因だけをいたずらに強調してしまうのは、ハッティの本の意図からは外れてしまうので注意が必要である。

*2:壮大な自爆・ブーメランである。

Copyright © 2023 ならずものになろう All rights reserved.