Twitterでノート指導についてのツイートが色々と流れてきた。
国語科の授業でもどうやってノートを書くかということは気になりますし、そもそも「書く」という作業がノートには伴うので、国語科は積極的に指導のあり方を考えていくべきだろうなぁと感じます。
実際、こんな本も出ています。
ノート指導 ―子どもの自己学習力を育てる (シリーズ国語授業づくり)
- 作者: 吉永幸司,森邦博,泉宜宏,日本国語教育学会
- 出版社/メーカー: 東洋館出版社
- 発売日: 2015/10/21
- メディア: 単行本
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自己学習力という言い方にどんなノートを書かせたいのかということが伝わってきます。
ノートを書くのは何のため?
ノートは情報の構造化する力を伸ばすためにあるんだろうながと最近思ってます。ノートがメモにしかならないところから如何に脱却していき、次のアウトプットに繋げられるようにするのか…。難しい課題ですね。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年6月3日
自分のノート指導についての考え方は、このくらいなものです。まだ、ぼんやりとしていて、試行錯誤しているところです。何のためにノートを取るのか、ノートを取るという作業が一体、どんな学びに繋がっているのかということを考え中というところです。
何となく思ことが上のツイートの内容です。
つまり、多くの情報の中から自分に必要なものを試行錯誤しながら再構成していくことがまずは大切なのではないかと思うのです。ポイントは試行錯誤。
ノートに板書を写すだけであれば、そこに試行錯誤は必要ないですし、聞いたことや読んだことを写すだけであっても、別に試行錯誤は必要ないだろう。
もちろん、試行錯誤は何かをアウトプットするためにこそ行われることであるので、試行錯誤に値するだけの問いがなければ、行われることはない。そうなると、授業でどんな課題を生徒に投げかけていくのかという授業のデザイン全体の話になってくる。
ただ、あまり能力、能力、あれをしろ、これをしろということをいうのには留意が必要だろう。息苦しくなるだろうし、ハードルが高くなっていくばかりである。
国語教育の大家、大村はまは「学習記録」(ノートをポートフォリオのようにしたもの)で大きな成果を残したわけですが、その「学習記録」についても、こんなコメントを残していることは留意しておくべきでしょう。
… ″役に立つ″ということばは、どういうことだろう、と考えたのです。
皆さん、記録はね、あんまり、役に立つか立たぬかって、つきつめないで書いたほうがいいと思います。この前も申しましたように、書くことそのことが、書くその人の力ですから…。それを書くことによって自分が育つからです。自分に身につくものがあるからです。もうそれで、書き手としてはじゅうぶんです。それがほんとうに役に立たない、もうふたたび見ることのないものであろうとも、役に立とうとも。そんなことはいくら考えてもわからないことです。確実なのは、ただ、書いた自分の身について「書く力」だと思います。(『大村はま国語教室12巻』PP.398-399:下線強調は引用者による)
とりあえず、筆不精にならないってことも大切なのかなぁ…。
デジタルとノート
ノートに関して言えば、最近はデジタルツールがかなり教室でも使えるようになっているので、ノートテイク自体をデジタルにするという選択肢が生まれつつある。
デジタル機器は、使用できるようになるまでに多少の訓練は必要ですが、使用方法に習熟すれば、アナログで書くよりもよほど試行錯誤が可能であり、情報の構造化という意味では便利なツールである。
ただ、アナログを使わなくていいということだとか、デジタルの方がアナログよりも優れているということを意味してはいない。
自分も死ぬほど手書きは嫌いですが、ぐちゃぐちゃと構想を考えるのは手書きでやったほうが早い。でも、清書を手書きでやれと言われたら、もうブチギレですよね。
仕上がりの美しさや共有の手軽さを考えると、デジタルで日常的にアウトプットする練習は必要だと感じます。また、そもそもデジタルであれば、試行錯誤も手軽に行えるため、扱う情報量を格段に増やせるのです。
一方で、アナログが必要な場面も多いですし、アナログの使いやすさはあるので、それなりに手書きの時間は必要だろうとも思います。
まだまだ、環境的に自由に選べないのは心苦しいところです。