ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

問うて、問うて、問う

Question!

考査の返却なども済み、どのクラスでも次の単元の指導を始めています。実質的に、二学期からは入試演習となってしまうので、これが彼らに指導する最後の単元です。

今回は「「である」ことと「する」こと」です。

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

これだけ古い評論をなぜ読まなければならないのでしょうね。

内容の理解もハードルは低くなく

「である」ことと「する」ことは、教科書の掲載されている評論の中でも1,2を争う長さである。長くて分量が多いということは、それだけで読むことのハードルは生徒にとっては高い。

整理して読めば具体例が多いし、それほど論理的にねじれたことを言っている訳ではないので、他の小難しい文章よりはよほど読みやすいと思うのだけど、まあ、なかなか全体を把握することは負荷が高い。

だから、そもそも、内容をきちんと読み取るという作業についても、色々と支援していかなければいけない。なかなか指導書には奮ったことがことが書いてあり「この文章は何度も何度も読ませることでおのずと意味が見えてくるので、とにかく読ませろ」(大意)という力技が推奨されていたりと……(笑)。

まあ、必然的に読みたくなるような文脈を置いてあげたいところだけど、日常感覚とは近くはないだろうから、さて、どうやって読んでもらおうかな。

内容を理解するだけでは…

皮肉な話であるけど、この丸山眞男の文章はとてもシンプルな理屈で書かれており、論理的にも説得力を感じやすい文章であるので、本文を何度か読めば、丸々と色々なことが分かったつもりになりやすい。

しかし、そうやって分かったつもりになって、筆者の主張をそのまま受け入れるだけでは、筆者が批判する「する」の理論が必要な場面で「である」に安住するという態度である。これは筆者の主張を平板な近代批判として捉えることであり、そのような読み方の問題性は

“新しい作品論”へ、“新しい教材論”へ―評論編〈2〉文学研究と国語教育研究の交差

“新しい作品論”へ、“新しい教材論”へ―評論編〈2〉文学研究と国語教育研究の交差

 

でも指摘されていることである。

だからこそ、高校最後の単元として、平板な理解に留まることなく、ダイナミックな精神活動を体現するために、書いてあることを分かった気になるのではなく、分かろうと問うことを続けなければいけないのだろうと思うのです。

評論を読むことの意味を問う

色々な問いはあり得る。

しかし、今回、一番、根本的な問いとして生徒を揺さぶり続けようと思う問いが「なぜ評論を読まねばならないのか」ということである。

とりあえず、最初に思いつくことを書いてもらい、交流を始めている。

表面的に上滑りするものから、言葉になりきらないで悩むものまで……本文を補助線にして、自分の考えを鍛えてもらえればいいなと思う。

ある意味で「評論」というものが「である」と「する」という視点を使えば、もう少し、生徒の考えが焦点を結んでもらえそうな気がするが……さあ、本文がちゃんと読めていないと繋がらないし……なかなか、ハードルは高いかも。

何かを問うということのエネルギーをきちんと体験してもらいたいところだ。

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