理系クラスでも「である」ことと「する」ことをやっています。
基本は文系と同じ線で進めていく予定。
残念ながら、大人になって評論を読まなくなってしまう可能性がある。
でも、そんな可能性を否定したくて生徒へ投げかける言葉がから回るのである。
読まなければいけないものではないけど
評論は必ず読まなければ生きていけないものではない。
最近の大学改革でずいぶんと実用性ばかり強調されているので、理系と文系の溝が深くなっている感じはありますが、それでも文理関係なく、必要なものは必要なだけ知ろうとしてほしいなぁと感じるのです。
まあ、理系に限らず文系の生徒も、うっかりすると二度と高校を卒業してから評論を読まないなんて可能性もある訳なので、あまり理系にばかり「将来でも評論を読め」なんていってもダメですけどね。
でも、当社比、文系クラスに比べて理系クラスの方に力説しているような気がするのである。
それはたぶんだけど…
この力説の仕方を自分で振り返ってみると、何だか生徒が将来、第一線で活躍する前提で話している気がするのである。第一線で活躍するんだから、ちゃんと物を考えられるようにしなさいとか、最先端の役割を担うなら、人文知をちゃんと知っておきなさいだとか……あたかも、彼らが大物だって口ぶりである。
過去の卒業生や彼らの希望する進路からすれば、随分と大それたことをイメージしているなぁと自分が少しおかしく感じる(笑)。
しかし、それでも生徒が大物になるような話し方になってしまう。深層心理で彼らが大成功するのを妄想しているのかもしれない(笑)。親バカならぬ担当バカ。いや、ただのバカなのかもしれない。
子どもたちの可能性を考えることが、楽しいことなんだなぁと思う。