これにて一学期の授業は店仕舞いである。まあ、厳密にいえば色々と数時間残っていたりするのだけど、中途半端だけに使いにくい時間数が残ってしまっている。消化試合の有様になりかねないので、実質的には本日で終わりである。
思い描いていたのとは全く違う場所にたどり着いた気がする。
考えることは面倒である
面白おかしく興味を引くようなものを用意して授業するのは悪いことではないのだけど、結局、興味を惹くようなお膳立てをしているときに一番勉強しているのは授業者という状況に陥ってしまう。
そうそう教室で数十人を相手にしているときに、題材を投げるだけで誰もが興味を持って楽しく勉強なんてできない。何も手立てを準備しないで丸投げするのはただの放任でしかない。
でも、準備して色々と面白くすればするほど、別に自分の頭を生徒は使っていないよなぁ……と感じさせられることは多々ある。要するにショーを見ているのと同じである。観劇よりも多少は前のめりかもしれないけど、ディズニーランドのアトラクションと大差がない気がする。日常とは接続しないし、もてなされているだけである。体験としては楽しいけど、別に何かが残る訳ではない。
丸投げはしないけど、接待はやめないとダメだよなぁ……と思って、不親切な授業を繰り返す今年度。
予想通りというべきか、やっぱり考えるどころか読みもしない生徒が激増したとつくづく思う。結局、自分の三年間やってきたことはこの程度の成果しかないのだと思い知らされている。接待されて面白ければやる程度にしか興味関心の幅も、粘り強さも育てられていない。
考えるという行為は面倒なんだよ。わざわざ暴かなくてもいいことまで暴こうとするから考えるのだから。何も気にしないで何も興味を持たないなら考えなくたって十分である。その面倒くささを引き受けてもらう方法が自分には分からない。もう、卒業だって見えているのに、今更、接待なんてしたくない。
何を教えているのか
自分が何を教えているのかということについては、別にいくらでも屁理屈は立つし、そもそも単元立てる時は学習指導要領との対応だってきちんと整理はしている。
ただし、そうして揃えたものをそのまま芸もなく投げつけてもダメなわけで……まあ、それぞれのタイミングで悩みます。
生徒が「国語ってどうやって教えるんだ?」と不思議なことをつぶやいていましたが、まあ、簡単には説明できないですよね。
「先生のコメントは指導する気がないでしょう。書いてきたことへの感想ですよね」
その通りだよ。
まあ、感想というか書いてきたことに一読者として反応すること自体に指導的なねらいはあるんだけど、何でもかんでも答えのあることばかりを授業でやっているわけではないんだよ。
もう、卒業が間近なのだ。
ただ、対等に、議論していければいいなぁとは思うのだけど。